「聞くは一時の恥、聞かざるは末代の恥」

「聞くは一時の恥、聞かざるは末代の恥」

 「張牧師との関係」をどう理解するか。昨日も、未見の敬意を払うクリスチャントゥデイの在り方を問う方から聞かれました。しかし、私はその問が全く理解できません。
 クリスチャントゥデイで働いて、4年目になりますが、その方にお会いしたことも、何らかの接触を受けたこともありません。

 私なりに確言できます。高校時代にキリスト信仰に導かれ依頼、自他ともに認める一貫した歩みを続けている中で、教会や神学校において、自らを含め、①あることをないことにしない、
②ないことをあることにしない、
ウソとの闘い(ヨハネ8:44の偽り)を継続してきたと自認しています。

 今、最も自由に、そして真に落ち着いた戦闘的な場をクリスチャントゥデイにおいて、また自分の個人的なブログ、フェイスブックやYouTubの場で与えられていると理解します。
 その場にとどまりつつ、制約の中で、読みに読み、書きに書く、小さな営みを、主の助けを求めつつ、昼も夜を続ける覚悟です。生涯の終わりまで、生きた終末信仰の実践として。敬愛する教え子方を含めさらなる対話の深まりもとめます。
 同時に、神の国と神の義を第一にせず、権力や地位に縋りつく動きに対しては、なれ合いや沈黙から解き放たれ、親しい教え子であっても、いや教え子であるから必然的な対決も覚悟しています。

 小学校の担任の花井先生が教えて下さり、私なりに実行してきました。
「聞くは一時の恥、聞かざるは、末代の恥」
 私に関係を問う「張先生」は、どのような御方なのですか。
私に問う方ご自身は、「張先生」にお会いになったことがあるのだろうか。
 
 私が確認できるのは2013年に紹介されて会った、矢田社長が私をだますような人ではないとの直感です。
 その時から3年余、彼と週に2回以上会い続けて来ましたが、その思いは深まるばかりです。
 昨日水曜日、午後クリスチャントゥデイ事務所から、久しぶりに、敬愛する、無教会の佐藤全弘先生に電話をしました。待望の佐藤先生のコラム(内村との関係で、新渡戸についての積極的評価のもの)掲載準備が整った報告のためです。
 さらに側におられた若き矢田社長を紹介。ところが、30代前半の社長の声を聴いて、「仕事を隅々まで配慮してする方だ」との意味の感想を、佐藤先生は電話の彼の声を聴いただけで明言なさり、私は驚いたり喜びが心の深くあふれたリ。
  脳梗塞で入院中に覚えた携帯を通しての祈り合い。
今や80代後半の佐藤先生、そして70代後半の私、それぞれの場で、それぞれの制約を担いあいながら、福音宣教の日々、感謝。