「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 森弥栄子姉の第24話 マルコ15:33−41

「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 森弥栄子姉の第24話 マルコ15:33−41

第二十四話 十字架の死(マルコによる福音書 第十五章三三〜四一)

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼をおろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上ってきた婦人たちが大勢いた。

みなさんは、ロビンソン・クルーソーのお話を知っていますか。海で遭難して、なんとか命が助かったロビンソン・クルーソーという男の人が、お友達も誰もいない離れ島で、たった一人ぼっちで生活していかなければなりませんでした。そのとき、たった一冊の本に励まされて生きていました。その本は聖書でした。いま、みなさんが手にしているその本です。ロビンソン・クルーソーは、寂しくて、不安な毎日の続く中で、何度も何度も聖書を読みました。おそらく、聖書のどの頁からもイエスさまのみ声が、ロビンソン・クルーソーに話かけては、大きな慰めと励ましを与えてくれたことと思います。

わたしたちは、ロビンソン・クルーソーのような離れ小島に一人ぼっちの寂しい生活をしているわけではありませんけれども、聖書をくり返し、読み直してみますと、心にジーンと響いてくるような幾つものお話に出会うことができます。もし、みなさんの中に、聖書のあそこのあのお話、あのイエスさまのみ言葉がわたしは大好きになった、と言えるものがあれば、それはもう素晴らしい宝物を大切に持っている人だと言えましょう。

エスさまが十字架に付けられて、人間の罪の償いのために死んでくださったという、今朝のお話は、実は聖書の物語の中でも、大変に心打たれるお話の一つです。一つだというには、もう一つ心打たれる大切なお話があるからなのですが、それは、来週の日曜日にきっとみなさんが知るお話です。

さて、イエスさまは何一つ罪がないのに、十字架の死刑ということになりました。罪があるのは、罪人ではない神のみ子イエスさまを、十字架に付けるのに賛成した人たちの方です。十字架とは、ローマの時代に奴隷の処刑に使っていたものです。そのような恐ろしい処刑を、こともあろうに、神さまのみ子にしようとする人々を、父なる神さまはお喜びになるでしょうか。お喜びになるはずはなく、神さまは暗い悲しいお気持ちになられるでしょう。

昼の十二時になると、全地は暗くなり三時まで続いたと、聖書には不思議なことが起こったように書いてあります。
このとき、イエスさまは十字架の上で、「わが神、わが神、なぜ、わたしをお見すてになったのですか」と、大声で叫ばれました。十字架の上で、いま罪人たちのために代わって、死のうとされているイエスさまが、大声で叫ばれたこのお言葉は、決して絶望して出た言葉ではありませんでした。
旧約聖書を、全部通して読める人は、是非お家で読んでみてください。
〝わたしの神よ、わたしの神よ
 なぜわたしをお見すてになるのか〟と、
絶望的な言葉で始まっているこの詩が、おわりには、神さまの救いを信じて、神さまの深い恵みに対して感謝している言葉に変わっていきます。
エスさまは、罪人に代わって十字架につけられ死んでいこうとする、そのときさえも、本当はお父さまでいられる神さまのことを、絶対に信じておられた方なのです。父なる神さまが、一番いとおしいと愛されておられたみ子にもかかわらず、いや、いとしい子だからこそ、神さまのご計画のために用いられて、罪人のために犠牲にされたのでしょう。

その神の子の犠牲を見ていた人たちの中には、三種類の人たちがいました。
「エリヤという、昔の預言者がイエスを降ろしに来るか見てみよう」と、考えていた人がいます。もし、エリヤが来たらイエスを信じようとこの人は思うのでしょう。自分の目で、見えるものを確かめないうちは、決して真実を信じない人です。冷たい目です。

一方、ローマ人の百人隊長という兵隊は、「本当に、この人は神の子だった」と、心打たれて告白しました。十字架の死という奴隷のようなみじめさにあっても、父なる神さまへの信頼を最後の最後まで捨てなかったイエスさまの雄々しさに、胸が詰まるような恐れ多さを感じたのでしょう。兵隊ですから、沢山の人が戦場で死んでいったのを見たことでしょう。けれど、どの人間にもイエスさまのような、神さまを信じて、完全に従った人を見たことがなかったのです。まさに、このお方は神の子だったと、信仰を告白したのです。

そして最後に、遠くから十字架を見ていた人たちがいます。この時代、身分も低く、あの十二人の弟子たちとは比べものにもならないとされた、女の人たちがいました。ずっとイエスさまに従い、イエスさまにひたすらな愛を感じればこそ、イエスさまを神の子として信じてきた人たちです。涙にくれてイエスさまの十字架を見守っていたでしょう。
ペテロさんたち十二人の弟子たちは、どこかに隠れて今はいません。けれど、神さまはイエスさまを愛する力を、この弱い婦人たちに与えてくださいました。
エスさまは、十字架の死に絶望したのではなくて、勝ったのです。ですから、二千年も経った今もって、全世界にイエスさまの父なる神さまがなさった出来事は、罪ある人間を一人残らず救うために、福音として告げられているのです。

天におられる父なる神さま。
喜びのときも、悲しみのときも、聖書を読み、福音を伝える人としてください。アーメン。
一九九〇・三・一八