「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 森弥栄子姉の第23話 ルカ22:54−62

「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 森弥栄子姉の第23話 ルカ22:54−62

第二十三話 ペテロの否定(ルカによる福音書 第二十二章五四〜六二)

人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペテロは遠く離れて従った。人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペテロも中に混じって腰を下ろした。するとある女中が、ペテロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。しかし、ペテロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。少したってから、ほかの人がペテロを見て、「おまえもあの連中の仲間だ」と言うと、ペテロは、「いや、そうではない」と言った。一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。だが、ペテロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思いだした。そして外に出て、激しく泣いた。

旧約聖書の中に、「出エジプト記」というお話があります。モーセという大変に偉大な人が、それまで辛い生活をしていたイスラエルの人々を、エジプトの国から助け出すという雄大な物語です。イスラエルの人々が、モーセに連れられてエジプトの国を出ることができましたのは、神さまのお導きがあったからだと人々は信じて、その時の救いを神さまに感謝してきました。その感謝のお祭りが、「過越のお祭り」です。

聖書には、イエスさまがご生涯のうちで最後の「過越のお祭り」の日に、十二人の弟子たちと一緒にお食事をなさった場面が描かれています。「ルカによる福音書」にはこのようなお話があります。お祭りの食事をしている時です。イエスさまがペテロさんに「シモン、シモン」と呼びかけて、大変だいじなお話をします。それは、恐ろしいお話です。悪魔がペテロさんに働きかけて、ペテロさんの信仰が試されるというようなことを、おっしゃるのです。けれども、イエスさまは、ペテロさんの信仰がなくならないように、一生懸命にペテロさんのために祈ったとおっしゃいました。イエスさまは、このとき既に、ペテロさんが間もなくイエスさまを信じない人になってしまうことが、分かっていらっしゃいました。けれども、ペテロさんには、まだ、自分がイエスさまを裏切るような人間だとは分かっていませんでした。人間というのは、自分がよく分かっているようでいて、実は、自分のことが本当には分かっていないのです。

ペテロさんはイエスさまを信じてはいましたけれど、それ以上に、自分を信じていたようです。自分は絶対に正しくて、大丈夫、イエスさまを裏切るようなことはない、と信じていました。ですから、「主よ、わたしは牢屋にでも、また、死ぬことがあっても、一緒に行く覚悟です」と、大変かっこうの良いことを言ってしまいました。
すると、イエスさまが「ペテロよ、あなたに言っておく。今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と、ペテロさんにはわけのわからないことをおっしゃいました。

それから今朝読みました聖書のお話に続いて行きます。過越のお食事が終わってから、イエスさまは、ユダに裏切られて、日頃からイエスさまを憎んでいた人々に捕らえられてしまいます。人々が、神さまに救われたことを記念して感謝をささげる「過越のお祭り」の日に、神さまのみ子が捕らえられて、十字架にかけられて殺されようとしているのです。犠牲にささげられる小羊のようにです。あの十一人の弟子たちすら、今では、イエスさまの味方にはなれないのです。あれほど威勢よく、「死ぬまでご一緒します」と宣言したはずのペテロさんまで、イエスさまから遠く離れていました。

それでもまだ、ペテロさんはイエスさまの最期がどのようになられるのか、心の中は心配で一杯だったのです。恐る恐る、みんなの後ろからついて行きました。人々はイエスさまを捕らえて、大祭司のところへ連れていきました。もう、夜中でした。大祭司の家の中庭ではたき火をして、人々が体を温めていました。夜が明けたら、イエスさまを議会で裁こうとしていたのです。ペテロさんも、闇に紛れてたき火に当たっていました。ユダのように、イエスさまを完全に裏切れないけれども、そうかといって、「イエスさまを神さまのみ子だと信じています」と、人々の前に言う勇気はペテロさんに今はありません。黙ったまま、たき火に手をかざしていたのでしょう。すると、大祭司のところで働いていた女の人が、ペテロさんをじっと見つめて、「この人もあのイエスと一緒にいつもいた人です」と、言いだしました。ペテロさんは恐ろしくなって嘘をつきます。自分もイエスさまのように捕らえられるのが怖かったのです。「わたしはあの人を知らない」と、言ってしまいます。

少したって、ほかの人が「おまえも、あの連中の仲間だ」と言われて、ペテロさんは「いや、ちがう」と、打ち消します。三度目に、また、ほかの人に「確かに、この人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と、とがめられても、ペテロさんは必死でイエスさまを知らないとしらばくれます。ペテロさんがまだ話し終わらないうちに、夜は明けかけてきて鶏が鳴きました。

その時、主イエスさまがペテロさんの方をふりむいて、じっとお見つめになりました。ふりむかれたイエスさまの目と、ペテロさんの目が出会いました。「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と、主がおっしゃった言葉がペテロさんに思い出されました。主イエスさまへの信仰をなくしてしまった自分に、はっと気づいたのです。ペテロさんをふりむいて見つめたまま主イエスさまの目の中に、ペテロさんはほんとうにお優しく、力強い、励ましのお言葉を思いだして、自分の惨めさに激しく泣いて後悔しました。
「しかし、わたしは、あなたの信仰が無くならないように、あなたのために祈っている。だから、あなたが絶望の中から立ち直ったときには、望みを無くした兄弟たちを力づけてやりなさい」と、イエスさまが「過越」のお食事の席で言われたお言葉が、いま、ペテロさんに分かりかけてきました。イエスさまは、ペテロさんがきっと立ち直ることをも見ぬいていらっしゃいました。

わたしたちは、イエスさまの愛の深さをここに知らされます。私たちもまた、心からイエスさまを信じて従っていけるようになるまでには、ペテロさんのように、なんども勇気を無くしてしまうでしょう。神さまを信じられなくなることがあるかも知れません。けれども、ユダのようにではなく、ペテロさんのように、絶望の中から立ち直ることを、私たちのために祈っていてくださる、イエスさまがいらっしゃることを思いおこしましょう。「イエスさま、助けてください」と、すなおな心になってお祈りしましょう。
一九八九・三・五