「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 その15 森弥栄子姉の第9話 ヨハネ1:14−18

「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 その15 森弥栄子姉の第9話 ヨハネ1:14−18

第九話 キリストの降誕(ヨハネによる福音書 第一章一四〜一八)
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしより先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかって、神を見たものはいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

先々週の日曜日に、K先生が新約聖書の中の、このヨハネによる福音書からお話をしてくださいました。
洗礼者ヨハネという人がヨルダン川のほとりで、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。主の道をまっすぐにせよ」と、人々に説いていました。
神さまを知らない人、神さまを信じない人、あるいは、神さまという名前は知っていても、神さまを正しく信じているとは思われない人々が、たくさんいた時代でした。神さまを正しく知らない人々が支配している世界は、洗礼者ヨハネが言うように荒れ野ではないでしょうか。荒れ野って、どのようなところを言うのでしょうか。草も木も生えず、もちろん、美しい花も見られません。石や岩がごろごろして冷たい嵐が吹きすさび、水一滴も見当たらないようなところだと想像します。

つまり、神さまを知らない人の心とは、荒れ野にたとえられるほど、ポッカリとあいたむなしい場所のようだと言うことでしょう。そのようなむなしい心を持ちながら生きている人々の多い時代が、洗礼者ヨハネが現れた時代だと言うならば、いま、わたしたちが生きている時代はどうなのでしょうか。
確かに、岩がごろごろした荒れ野ではないかも知れません。クリスマスが近づいていると知って、吉祥寺の街もクリスマス・ツリーが飾られたり、リースが下げられたり、クリスマスの贈り物にしてくださいと言わんばかりに、わたしたちの欲しくなるような物・物であふれています。お店の中では讃美歌さえ流れています。けれども、それは街の人々が、心から主イエスさまの救いを知って、喜びと感謝を表しているからなのでしょうか。

もし、イエスさまのお誕生の意味を知らないとしたら、きれいに飾られたツリーも、リースも、プレゼントも、皆むなしいただの物にしかすぎません。
わたしたちも、クリスマスにはどなたからかプレゼントをいただくかも知れません。確かに、贈り物があるってうれしいことです。でも、そのプレゼントを開く前に、わたしたち教会へ通う子供たちは、「ヨハネによる福音書」の中で美しく響いている一つのみ言葉を思ってみてください。クリスマスがどのような日なのかが、分かってくるかも知れません。

「初めに言(ことば)があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」ヨハネによる福音書の書き出しです。そして、今朝読まれた言葉の初めに、「神さまの言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と言うのです。
言(ことば)とは神さまの思いです。神さまの思いに従って、わたしの生き方が造られていくのです。
神さまがいらっしゃるということが、人間にはなかなかわかりにくいし、なかなか信じられないのです。ですから、人は困ったとき、苦しいときになって、あわてて祈ります。でも、そのような祈りでは、神さまは「あなたを、知らない」と、言われるでしょう。

でも、人間は誰も神さまにお会いしたことがありませんから、神さまの思いをどのようにして知ったらよいでしょうか。神さまに導いてくださいと祈ったとしても、神さまの本当のお導きをどのようにして分かるのでしょうか。ひょっとしたら、とんでもない悪魔の導きに会っているかも知れないのです。荒れ野の中に放り出されて、罪を犯しているかも知れない自分に、どのように気づいたらよいのでしょうか。

そのような疑問に「ヨハネ福音書」は答えてくれます。神さまの思い、それは難しい言葉ですが、聖書では〝真理〟とも言います。
クリスマスの夜、わたしたちのためにこの世に人間となってお生まれくださったイエス・キリストのご生涯のすべてを見てゆくと、その真理が何かが分かってくるのだと言います。わたくしたち人間がまだ見ることの叶わなかった神さまの思いを、イエスさまがわたしたちに示してくださっているのです。それは、父なる神さまのみ子がお示しくださっている真理ですから、これほど確かな真理はありません。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とヨハネは言っています。
神さまの真理がイエスさまという方のご生涯のすべてになって、今の時代にさえ、わたしたちの心の奥に語りかけ、大いなる救いとなっています。
クリスマスとは、わたくしたち一人一人の心の中に、神さまのみ子イエスさまがいらしてくださったことに、心から感謝のお祈りを捧げる日ではないでしょうか。

一九八九・一二・一七

クリスマスのお祈り

恵み深い父なる神さま。
美しいクリスマスの日を迎えましたこと、そして、信仰の浅い私たちを今、教会に集めて、あなたを拝むことをお許しくださいますことに、心から感謝いたします。
二千年の昔、あなたは主イエス・キリストをこの世におつかわしくださり、人々に大いなる愛をお示しくださいました。
この世の罪を負い、十字架の上に、尊いあがないの子羊となってくださいました。そして、今もなお、わたしたちをあわれみ、わたしたちの生きていくすべてを、照らして導いてくださいます。
そのことを忘れがちなわたしたちでございます。

けれども、クリスマスのこの日、父なる神さまのみ心によって、この世で最も尊いエスさまという、救い主をいただいておりますことを、深い感謝と喜びをもって思い出させてください。
主イエスさまによって示されました、数々の賜物を、どうか、教会を通して、わたしたちが正しく知ることができますように、いつも教会に結びつけてください。
わたしたちを救うために語られる、み言葉がわたしたちの心の奥深く響き、イエスさまの子供にふさわしい豊かな霊の成長がいただけるように、導いてくださいますようにお願いいたします。
イエス・キリストの栄光が、どうかわたしたちの国にも満ち満ちますよう心から願います。
これらの小さな祈りを、主イエス・キリストのみ名を通して、み前にお捧げいたします。アーメン。

一九八七・一二・二五