北海道苫小牧福音教会の水草先生が、童謡説教「メダカの学校」をめぐる問答

北海道苫小牧福音教会の水草先生が、童謡説教「メダカの学校」をめぐる問答

水草先生 めだかの学校の第3節。メッセージはなんでしょう。
めだかの学校はうれしそう
みずにながれてつーいつい
みずにながれてつーいつい
みんながそろってつーいつい

宮村
水草ご夫妻、おはようございます。
以下のように、解いて見ました。
1節
川のなかのめだかの行為に焦点。
2節
川のなかのめだか同士の関係、目に見える子弟関係と目に見えない、より本質的な存在関係
3節
川のなかのめだかから、めだかが存在している川に焦点が移っているとみます。少なくともめだかと川の関係に意が注がれています。
ですから、環境問題へのまなざしとも見ることが出来ます。
しかし、川と言わず、
水にながれて、水にながれてと二度繰り返されている事実を見逃せません。かわから水とより根源への心の向きを感じます。
同様に、泳ぐめだかとめだかの自力ではなく、ながれる・ながされる、他力のめだかとしての自覚の表現の移りを見ます。

めだかと二重写しにして見られるべき私たちの自覚としては、自己の行動や人間関係など、様々な事実と共に、地球の自転や公転により、みずにながれている事実への宇宙論的転換を必然を自覚します。
そしてここから、ローマ11:36へは、後一歩です。聖霊ご自身の導きによってのみ可能な一歩。

すーいすいではなく、つーいついであるのも、泳ぐではなく流れれる・流される存在の描写かも、これは、作業仮説の段階です。

良き公案に深謝。
忍耐と希望(ローマ8:25)
宮村武夫・君代

水草先生
川から水へ!他力のめだか! びっくりです。
そういえば、小海の教会の丸山さんはめだかをたくさん飼っていらっしゃいました。
めだかが流れの中にあって、流されつつも、しきりにひれを動かして先生も生徒も姿勢を保っているのを思い浮かべると、神の摂理と人間の自由意志の関係を考えさせられます。
 私が神学生時代、先生が教会でなさった使徒の働きの説教のなかで、パウロの乗った舟が難破して、みなが飛び込んで死に物狂いで岸にたどり着き、ひとりの命も失われなかった、こうして神の約束が成ったところから話されたことです。

宮村
よく記憶くださり、感謝です。聖霊ご自身の働きと記憶、記録の関係は、私にとって、日本クリスチャンカレッジ1年生の時以来の課題です。
めだかの学校で、神の摂理と人間の自由意志の生き生きとした関係を考えさせられ、感謝です。