聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 その13 森弥栄子姉の第七話 十戒③

「聖書をメガネに 桐生悠々の名を初めて聞いたあの時」の,小さくない恵みの波紋 その13 森弥栄子姉の第七話 十戒

森弥栄子姉の第五話から第七話は、十戒を取り上げています。興味深い事実です。記述の背後に、竹森先生のご指導を覚えます

第七話 十戒Ⅲ(出エジプト記 第二十章一〜一七)

神はこれらすべての言葉を告げられた。
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の、水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。
殺してはならない。
姦淫してはならない。
盗んではならない。
隣人に関して偽証してはならない。
隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

 今週も十戒のお話をいたしましょう。こども讃美歌の後ろから四枚めくりますと、十戒が書いてありますから、そこを読んでみましょう。下にカッコをして「出エジプト記」と記してありますが、旧約聖書の「出エジプト記」に、この十戒が出ています。モーセ十戒とも呼ばれて、ほとんどのみなさんは既に知っていますね。けれども新しく教会学校に入ってきたお友だちもいますから、少しお話しいたしますと、昔むかし大昔ですが、イスラエルの国で、食べ物が実らない飢饉の時があって、人々は食べ物の沢山あった近くのエジプトに、長く住み着いてしまいました。
 けれども、イスラエルの人々はエジプトで決して幸せではありませんでした。幸せどころかエジプトの王さまの奴隷になって苦しい仕事をさせられたり、自分たちの大切なこどもを殺されそうになったりしていました。自由な、人間らしい生き方が許されませんでした。

 ある時、神さまは、奴隷になって苦しんでいるイスラエルの人々を、エジプトの国から出してあげよう、救い出してあげようと決めました。モーセと言う名前の人で、神さまを心から信じている信仰の深い人を先頭にして、イスラエルの人々は約四十年の間、荒野を旅しました。どのような旅だったのか、今、みなさん、旧約聖書の「出エジプト記」を読んでください。

 その旅の途中で、神さまが、人々に、十戒という十の戒めをくださいました。二枚の石の板に書いてあったと言います。それが、先ほどこども讃美歌の本で読んだ戒めです。一から四までが、神さまと人間の関係が書いてあります。「創世記」の天地創造の神さまは、人々をエジプトから助け出してくださった神さまでもあります。この神さまは唯一つの神さまですとおっしゃっています。五から十までは、神さまが命じることですが、人間とはどのような関係でいるのが正しいことなのかと、決めています。つまり、正しいことを完全に行いなさいと言うことです。

 お父さんとお母さんを大切に思って、言うことを聞きなさい。殺してはならない。盗んではならない。お友だちについて嘘のことを言ってはならない。他の人のものを欲しがって、むやみに羨ましがってはならない。神さまはこのようにおっしゃって、人間が完全に正義の人となることを、お命じになりました。

 けれども、この戒めを完全に守りきれる人はいませんでした。旧約聖書の中を読んで調べていきますと、やはり、人間は戦争もしていますし、唯一つの神さまのほかに、金の子牛を神さまの代わりにして拝んだりしています。死ぬばかりの苦しみを感じている同じ国の人を、見て見ぬ振りをして、死んだってしかたないなと、心の中で殺人を犯していることもあったようです。昔だけのお話しでなくて、今でも、わたしたちの心の中を覗いてみますと、やはり、十の戒めを完全に守るのは難しそうです。

 なぜかと言いますと、エデンの園のアダムとエバのお話にあったように、人間には「罪」がはいってきて、どうしても神さまを心から信じることができない、疑い深いところがあるのです。人間を創り出してくださった神さまを安心して信じられないのですから、自分とは違う人間を信じて愛することなどはとても無理です。これでは、なんとも人間は惨めですね。いつになったら、人間に本当の幸せや平和が訪れるのでしょうか。

 神さまがエジプトの国から助け出してくださったはずですのに、人々は「罪」という名の王さまの奴隷として苦しまなくてはなりません。「罪」の奴隷になって、苦しむなんていやですね。
もしも、神さまが、「心配しなくてもいいよ。『罪』は赦されたのだよ。さあ、行きなさい」と、「罪」を本当に赦してくださったら、そのことが本当に信じることができたなら、人間はどのように思うでしょうか。
たとえば、善いことをしようと思うのだけれど、つい悪いことをしてしまって、お父さんに叱られてしまいます。そんな時、「あやまったのだから、もう、心配しなくてもよい。遊んでおいで」と、言われたら泣きじゃくるのも止めて、どんなに嬉しい気持ちになるかもしれませんね。

 もしも、神さまが・・・と、さっき言ってしまいましたが、「もしも」でなくて、本当に神さまは、神さまのみ子、イエス・キリストを、この人間の中に送ってくださって、「罪は赦された。さあ、行きなさい」と、言ってくださいました。
 イエスさまを信じて、私たちが、自分の完全でないことを認めて赦してくださいと、祈るとき、イエスさまの向こうに、神さまの本当に暖かい愛の光がさしていることが分かってくるのです。神さまに、まちがいなく愛されているのだと信じることができれば、私たちはあのお友だちにも、このお友だちにも、神さまから頂いている愛を分けてあげることもできるでしょう。

 そして、何よりも神さまに対して、赦していただいている喜びと感謝が湧いてきます。その喜びと感謝の気持ちに押し出されて、勇気を持って、神さまがお命じになられた十戒に従っていこうということになります。完全には守れないかもしれないけれど、イエスさまの暖かいまなざしを受けながら、努力してみようということになってきます。私たちを罪の国のとらわれから救い出して、本当に幸せと平和をくださるのは、やはりイエスさまなのです。わたくしたちがイエスさまこそまことの神さまですと、口に出し、イエスさまをとおして本当の信仰と愛に導かれますように願います。

一九八八・六・二六