リハビリを受けつつ生かされる恵み、リハビリ神学の模索

リハビリを受けつつ生かされる恵み、リハビリ神学の模索

現在、私は訪問リハビリを受けつつ、日常生活を続けています。
2009年2月8日脳梗塞発症、その後3箇月のリハビリ病棟入院中の日々は、理学療法士作業療法士そして言語療法士による、心を込めた治療を受けました。その効果は、左手の指が1ミリ動いた時の感動など、徹底的に一対一の人間関係に基づくものです。
 リハビリの治療の有り方は、私にとって聖書の読み方と深く結びついた課題となり続けいます。

 退院後も継続された通院によるリハビリ、さらに2011年5月、25年振りに関東へ戻り、初め市川市、その後東京の江戸川区に移り、保険制度や治療施設の違いなどに直面しながら、現在の訪問リハビリにたどり着きました。
 現在の訪問リハビリは、クリスチャントゥデイの働きなど、宣教活動を私なりに継続する上で適していると感謝しています。

 このような経過で歩みをなす中で、最も基本となる一事を心に刻んでいます。それは、リハビリの目的は障害の回復ではない。障害を持ち続けながら、喜び生かされる歩みを継続するため、リハビリを恵みの手段として絶えられており、感謝しつつ活用することをめざしています。
リハビリを機能回復。特に以前のように完全に回復を目的とすると、早かれ遅かれ挫折する可能性が高い。
 障害を持ちながら生きるあり方・存在が目的であり、リハビリは、そのための貴重な手段なのです。このリハビの場合も、他の事柄と同様に、手段を目的にしてはならないのです。
 この私の気付き・自説は、沖縄で私の担当であったリハビリ・ドクターご自身が患者にとっての目標としながら苦労していると同意くださいました。

 実は、ローマ8:17以下に展開される、個人のからだと被造物全体のうめき見る、神の贖いの御業の両面に及ぶ並行関係の事実を、G。ヴォスの用いる豊かな内容を内包する「救済史」の代わりに、リハビリ神学との用語で表現できないかと模索しています。
 各種のリハビリに励むおなかもの上に、祝福が豊かにありますように。