沖縄で、クリスチャントゥデイで

沖縄で、クリスチャントゥデイ

 沖縄で聖書を読み、聖書で沖縄を読む。この課題を実践していく中で、避けて通れない祈りと思索の実践は、沖縄の諸大学に対するキリスト者・教会の関わりでした。
 
私個人の実践は、琉球大学で、小さな聖書研究会を20年近く継続したことです。その意識は、この聖書研究会は、小なりとはいえ、あたかも総合大学の神学部がなすべき役割を果たしていくとの志を持ち、そのように祈り、思索し続けてきたのです。それは、ハーバードや上智大学で、垣間見た神学部の役割に通ずるものです。
 
初めに天と地を創造なさったお方の意図と言い分が、聖書に公にされている。その聖書をメガネにして大学における諸学の在り方を視野に入れ続けていく。それこそ、小さな聖書研究会が大学で継続されていく意味であると確信しておりました。その意味で、私立大学であろうが、国立大学であろうが、聖書の神様が創設した大学との、一見無茶な、しかしひたむきな認識です。

ローマの牢獄に囚われていたパウロが、明確な意識と具体的な実践において、「キリストの囚人パウロ」であったと同じく、あの小さな聖書研究会があるべき神学部の役割を果たすことによって、琉球大学は真の意味で総合大学となる。そのような大学の営みの全ては、教会が被造物世界全体・ユニバースを聖書をメガネに視野に入れていく責任を果たすため、不可欠なものです。
 
聖書に立つ教会を離れて、大学が本来の大学としての使命を果たし得ないと同様に、万物を研究対象とし、これを教育する大学を軽視したり、まして無視するなら、教会は本来の使命を果たし得ない。この確信から、存在するもの全てに開かれた視野を持ち、聖書という視点から見ていく記事を、クリスチャントゥデイは大切な記事と理解し、あえて掲載していく。
 
 そうです。徹底的な聖霊信仰・徹底的な聖書信仰は、自分と意見を異にする人々の存在の事実を直視し、その意見がどのようなものであるかとできるだけ誠実に客観的に聞きつつ、聖書のメッセージを正しくだけでなく、深く、さらに豊かに伝えていく使命があると理解します。どんな小さな人のどんな小さな事柄もあなどることなく、また、どんな大きな権力や能力を自認している人々にもたじろぐことなく、分をわきまえ、分を果たす。そのような殉教を可能にする生活と生涯を願い目ざしながら、あえて書かれた記事であるとご理解いただければうれしいです。