沖縄・読谷の青年からの手紙

沖縄・読谷の青年からの手紙

「宮村先生、君代先生、お二人の上にある祝福のゆえに神様に感謝をおささげします。
 宮村先生が送ってくださいました、『喜びカタツムリの便り』23,24号を拝読し、溢れる祝福にお二人の健やかさも認めることが出来ました。感謝します。
 宮村先生執筆のイースターの記事、「主イエスの復活、アブラハムと私たち」を読ませてくださって感謝します。信仰的に最も印象に残ったのは、「聖書の下に自らを置くかどうかが課題です」という言葉でした。やはり、何と言ってもクリスチャンにとって重要なことは、みことばに従うことだと考えます。そのためには聖書の学びが大切ですが、礼拝のメッセージでも、恵みや祝福だけが語られるのではなく、神に従う道がよくよく教えられるべきだと考えます。僕もよく分かっていないはずですが、毎週の家庭礼拝で読まれるメッセージを大切にしています。
 また、希望を捨てずに、それと相反するかのように見える神のみこころに従う重要な教えも思い起こすことが出来感謝します。
 また、1コリント序盤にありますように、福音、しかもその最も基本的で中心にある復活の教えは、この世的には「愚か」なことでしょう。この「愚か」なことを宮村先生という第一級の知識人が大真面目に、何の混ぜ物もせず、まっすぐにそれだけを語っておられることは、素晴らしいと感じました。新鮮だと思います。
 山川勝浩さんについての文章も大変よかったです。読ませてくっださって感謝します。すばらし御業が神様いよってなされていた事をしることができてよかったです。
 ただ、やはりどうしても気になることは、宮村先生が首里福音教会を心から赦していないのではないかという事です。20余年仕えた教会を追われる事は、もしかすると宮村先生とご家族にとって、人生の大部分を闇に葬られたような損害を加えられたという事なのかもしれません。その苦しみはいかばかりか、想像することはできません。
 しかし、そのような相手を(心から)赦すように(そうでなければあなたがたの罪も赦されません)とイエス・キリストは言われました。
 また、私たちが赦せば、その人達は赦される、そのままに残せば、その罪は残る、とも福音書に書かれていたと記憶しています。もし赦せば、神の怒り(ヨハネ3:36)、呪いもその人達から去り、神様の御心に完全に歩めるようになるのではないでしょうか。私達は(心から)(キリストの御前で、Ⅱコリント2:10)赦さなければなりません。

 宮村先生ご夫妻の上にある神様からの溢れる祝福を覚え、感謝して。
             2016年5月2日(月)TG」