ヘブル人の手紙11章の味読・身読 その5

ヘブル人の手紙11章の味読・身読 その5
ヘブル11章17節-19節人「人を死者の中からよみがえらす神を信ずる、アブラハム

[1]序
 主なる神は、アブラハムの生涯を通して、神ご自身について教えられると共に、人間についても教えなさいます。
 人間を知らなければ神について知ることができず、神を知らなければ人間を知ることができない。主なる神は、驚くべきことに、アブラハム、イサク、ヤコブの神として、これらの人物を通してご自身を現されるお方です。そうです。私たちは、アブラハムを通して神を知り、主なる神を信じ仰ぎ、アブラハムを知るのです。
 では主なる神はアブラハムにどのようにご自身を現されたのでしょうか。ことばに基づく信頼関係、具体的には二つの約束です。
その一つは、約束の土地をめぐるもので、天の故郷を目指す旅人・アブラハムの姿に学んだところです。
第二は、子孫についてのもので、12節には、「天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです」とすでに成就されたかのように過去形で書かれています。
さらに17-19節の主題である復活信仰に心を注ぐことにより、どのように子孫についての約束が成就したかに注意したいのです。

[2]約束の子イサク
 17-19節の根拠は、創世記22章の記事。
(1)アブラハムの直面した試み。
 夫婦が年寄り、普通なら子供の誕生など考えられない年令に達した段階で、子供を与えられるとの約束。

 当時の習慣では、子供がいないくとも、養子縁組で相続人を定め得るのです。事実アブラハムもダマスコのエリエゼルを相続人とすることを考えていたのです(創世記15章2節以下)。
さらにアブラハムには、そばめハガルとの間にイシュマエルがいました。このような試練を通り抜けて、アブラハムはついに約束の子イサクを与えられたのです。

(2)しかし、創世記22章2節に見るように、アブラハムは今や最大の試練に直面します。
 アブラハムの父としての子に対する愛、創世記22章6-8節
 当時の背景。モレクの偶像礼拝では、自分の息子や娘を焼いてささげていました。ですからイスラエルの民がこのような悪習に染まらないように厳しい警告(レビ記17章7,20章1-8節)。主なる神は人身御供を決して求めておられない。身代わりの動物の供え物。人から神への道ではなく、神から人への道。神の備え(14節、アドナイ・イルエ)によって、礼拝の道が開かれる事実をアブラハムは心底(しんそこ)教えられるのです。

[3]アブラハムが直面した試みの直接の内容とアブラハムの信仰
 「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる」
「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげよ」
 このふたつの矛盾していると思われる、神のことばのいずれにもアブラハムは信じ従う。これらのことばを語り給う神ご自身に対するひたすらな信頼のゆえにです。
 ヘブル人への手紙の著者がアブラハムに見ている復活信仰は、創世記22章5節のアブラハムのことばに明示されています。「私と子どもはあそこに行き、礼拝をして、(私と子どもは、複数形)あなたがたのところに戻って来る」。このことばの背後に、神には人を死者の中からよみがえさせることができるとアブラハムは復活信仰を抱いているとヘブル人への手紙の著者は鋭く見抜くのです。

[4]結び
復活信仰に生きる。
(1)土台・出発。
主イエスの十字架、復活。

(2)目標、希望
 初穂である主イエス・キリストのように、主イエスが再び来たり給うとき、私たちも復活する望み。身体(からだ)のよみがえり。
(Ⅰコリント15章をじっくり味わいたいものです。特に15章58節に注意)。

(3)課題
 この復活の信仰に立ち、いかに現実に生きるか。土台は確かです。目標、希望も明らかです。しかし日々の一歩一歩は、どうでしょうか。アブラハムの歩みから復活信仰に立ち生きる生き方を学ぶ必要があります。一見矛盾している、矛盾に見える神の約束のいずれをも無視しないで大切にしていくべきことを教えられます。神のことばの両面、すべての面を通して、主なる神を仰ぎ望んで進む道です。 
Ⅱコリント4章7節以下、三位一体なるお方を信じることを許されている、この恵み。

★2016年ペンテコステ・メッセージ:ペンテコステとは ヘブル9章1〜14節 宮村武夫

2016年のペンテコステクリスチャントゥデイの働きに導かれて3年目、一つの大切な節目を通過しつつあると自覚しながら迎えています。

このような時に、ヘブル人への手紙における聖霊ご自身についての記述の中から、その一つ9章1〜14節を選び、特に9章14節に焦点を絞り、ペンテコステとは何か、基本的な意味の一端を心に刻みたいのです。

ヘブル9章1〜14節に見る二つの対比

9章1〜14節は、ヘブル人への手紙の著者が旧約聖書と密接な織りなしを深めながら、自らのメッセージの展開をなして行く事実(11章)を示す好例です。この箇所では二つの対比を中心に、著者は二分できる記述を展開、中心的なメッセージに私たちを集中させてくれます。

1〜10節と11、12節の対比

旧約時代の祭儀と主イエスの十字架における贖(あがな)いとの対比です。この対比の目的は、中心である11節と12節の内容を浮き立たせ、強調するためです。

「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです」(ヘブル9:11、12)

13節と14節の対比

1〜12節に見る対比は、比較的長い記述です。13節と14節のそれは、短く鋭い。しかも14節では重厚で内容豊かなメッセージ・神学を展開しています。この14節は、9章全体を理解するため、大切な鍵の聖句です。

そうです、14節で、キリストが傷のないご自身を「とこしえの御霊によって神におささげになった」と、主イエスの十字架と聖霊ご自身の助けは切り離せない、その深い結び付きをヘブル人への手紙の著者は鮮明に描き、十字架の事実が私たちにどれほど深く生きた関わりがあるか、明白な宣言をなしています。

ここで私たちが意を注ぐべきは、ヨハネ14〜16章です。そこでは、主イエス聖霊ご自身について約束なさっている事実を記しています。

ペンテコステ、その大切な一面は、聖霊ご自身の助けと導きにより、キリスト者・教会が、救いの出来事を正しく、深く、豊かに理解する約束の成就の道が開かれた事実です。そうです、「とこしえの御霊によって神におささげになった」と、ヘブル人への手紙の著者が、主イエスの十字架と聖霊ご自身の堅い結び付きに基づき、十字架の意味の理解を深めるため、主イエスが弟子たちに約束なされた聖霊ご自身が導いておられるのです。

このペンテコステの大切な側面を確認するため、ヨハネ14〜16章が大切な手引きです。その一例として、ヨハネ16章13、14節に注意したいのです。

「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたし(主イエスご自身)の栄光を現します。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです」

生ける神に仕える者として

9章13節に見る旧約の犠牲ですら力があったとすれば、ましてキリストがささげられた血の力は、どんなにか私たちの良心をきよめてくださるか、具体的な二つの面から著者は指摘しています。

① 死んだ行いから離れさせ(消極面)
② 生ける神に仕える者とする(積極面)

神無しとして歩み、行き先は死であり墓であるとしか見ない、袋小路の人生からの解き放ちです。

父なる神を「アバ、父」(ローマ8章15節、ガラテヤ4章6節)と呼ぶ恵みにあずかることにより、父なる神ご自身が備えてくださる人生の目的を知り、生かされる道への導きです。それは、心が平安になり、人生に筋金が入るだけではない。何に向かい生きるか、生涯の道筋をはっきり知り、それに基づき日々を生きるのです。

大祭司キリストの血、キリストの命による贖いの故に、生ける神に小さな祭司として礼拝をささげつつ、日々歩み、生涯の終わりまで、ひたすらな営みを重ねるのです。

最後に、ルカ18章18節以下に見る富める青年(マタイ19章20節)の記事を通して確認します。何をしたら永遠の命、救いを自らの手で確立できるかとの問いを見ます。この道を行くとしたら、「それでは、だれが救われることができるでしょう」(18章26節)と、「だれが一体」の壁しかありません。

文字通り、良いものであるはずの「良心」を判断基準にするのではなく、「良心をきよめて死んだ行いから離れ」る必要があります。

この富める青年に代表される生き方との鋭い対比で、ルカ19章2節以下ではザアカイの姿が描かれています。ザアカイの喜びは、彼の財産、全生活に及ぶのです。「生ける神に仕える者」とは、ザアカイの姿に見るそれなのです。ザアカイに見る喜びに、私たちの心、生活、生涯も満たされる道です。

苦悩と両立する喜びです。どんな苦悩があっても、聖霊ご自身によって注がれる喜びです。同時に喜びがあっても、苦悩は続きます。与えられた持ち場・立場で希望と忍耐を持ち、留まり忍ぶのです(ローマ8章25節)。

大祭司キリストに呼び掛けられ、木から降り、神の統治なさる世界に生かされる道。生ける神に仕える小さな祭司としてとりなし生きる道、それは大祭司キリストの恵みの御業の故です。人の目からはもちろん、自分自身の目から見ても、どうということのない小さな群れ。しかし、土の器に宝(Ⅱコリント4章7節)なのです。

ペンテコステとは。その大切な一面は、約束の聖霊ご自身が聖書記者を助け導き、主イエスにある救いの出来事を正しく、深く、豊かに理解しつつ書き表すよう導かれた事実にあります。私たちも、このようにして書き記された聖書を、同じ聖霊ご自身に導かれ、今ここで読み、主イエスに従い生き、主イエスを伝えるのです。

この恵みの事実を心に、そして生活・生涯にしっかりと受け止め、思考停止することなく生きる道こそ、「ペンテコステとは何か」に対する、私たちなりの応答です。

◇宮村武夫(みやむら・たけお)

1939年東京生まれ。日本クリスチャン・カレッジ、ゴードン神学院、ハーバード大学新約聖書学)、上智大学神学部(組織神学)修了。宇都宮キリスト集会牧師、沖縄名護チャペル協力宣教師。2014年4月からクリスチャントゥデイ編集長。