ヘブル人の手紙11章の味読・身読 その4

ヘブル人の手紙11章の味読・身読 その4

アブラハムに学ぶ』
ヘブル11章8−16節  

[1]序
ヘブル12章1節の励ましを、今一度覚えます。
「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

今後数回は、ヘブル11章8−22節を通して、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフに学びます。
まずヘブル11章6節に見る、神に喜ばれる信仰者の実例、模範、モデルとしてのアブラハム
福音は、体(からだ)を持つ、生きた人間を通し伝達されます。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』
(ヘブル11章6節)。

[2]信仰の父、アブラハム8節-12節。
(1)信仰の出発
応答としての信仰は、水道の蛇口のようなものです。確かに、蛇口を捻ることは大切です。蛇口を捻れば、水が出ます。しかしそのための備えは、想像を超えた大規模なものである事実を覚える必要があります。
 主なる神の救いの備え・計画が全ての基盤なのです。人の信仰は、その恵みの事実への私たちに与えられた応答の機会です(Ⅰコリント⒖:10)。

ですから8節だけでなく、10節にも意を注ぐ必要があります。
確かに、ヘブル11章8節にあるように、「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました」。
しかし同時に、ヘブル11章10節に見るように、「彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です」。
「どこに行くのかを知らない」でだけを見て誤解しないように。同時に、アブラハムは、いつも目標をはっきり見据えているのです。8節との10節の両面を同時になのです。一であり、同時に三である、三位一体なるお方に基づく聖書理解です。

(2)信仰の継続、継承
9節、「信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。」
信仰により出発した者は、信仰により、その歩みを継続。在留異国人としての苦しみの中で、イサク、ヤコブへと信仰の継承をなすのです。

11節、「信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。」
何よりも妻サラの信仰についての言及に励まされます。アブラハムからイサク、ヤコブへの信仰の継承は、サラとの信仰の交わりをなされているのです。

[3]信仰の目標、「天の故郷」、13ー16節
13-16節では、ヘブル人への著者は「故郷」とのことばが繰り返しながら、アブラハムの生き方を描いています。神の設計された都、天の故郷を目指し進むアブラハムの姿を鮮明に描きます。
(1)アブラハムにとっての故郷
 ではアブラハムにとって故郷とは、彼がそこから旅立って来たメソポタミヤの地方なのでしょうか(創世記11章27節-12章3節)。カナンが約束の地でなければ、メソポタミヤに帰るつもりなのでしょうか。確かに、ヘブル人への手紙の著者は、「もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう」(15節)と言います。

けれども、アブラハムたちにとっては、メソポタミヤもカナンも真の故郷ではないのです。「地上では旅人であり寄留者」(13節)なのです。このような背景を持つアブラハムにとり、「天の故郷」とのことばは、強く、強く心に響いたに違いありません。

(2)ヘブル人への手紙の最初の受信人にとって故郷
 ヘブル人への手紙の最初の受信人たちは、専制政治が崩れて行く変動期に生きていたのです。そうした混沌とした時代に都市を中心として都市国家が生まれて来たのです。巨大な絶対的専制国家ではなく、小さな都市が人々を市民として守るのです。
混沌とした情況の中での都市国家。ですから都を求める生き方は、当時の人々にとって理解しやすいことでした。

しかし、いくつもの都市国家が互いに牽制しあい戦い合う状態が続いたのです。また一つの都市国家の内部においても、すべての人が自由を与えられたのでいのです。自由を与えられたのは、自由民と呼ばれる人々のみです。奴隷や女性の犠牲によって、彼らの自由は保たれていました。こうした矛盾をも当時の人々は知り抜いていたのです。 
もう一つ都を待ち望む背景として、バビロン捕囚以来の歴史があります。故郷を離れ各地に散らされて生活している中で、自分たちの都はエルサレムとしてそこに帰ることを求め続けるのです。しかし同時に地上のエルサレムが崩壊した事実を認め得ざるをえません。

このように、都・故郷を求め続ける現実、しかし地上には真に頼り得る都・故郷はない、この二つの面をヘブル人への手紙の受信人たちは、冷めた目をもって見、良く理解していたのです。 

[4]集中と展開
(1)集中
ピリピ3章20節
「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」

では、真の故郷とはどこなのでしょうか。16節には、「しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。」とあります。
「天の故郷」。「故郷」とは、秩序が保たれ心の安定が与えられる場所です。その根本にあるのは、「父よ」と呼ぶことのできる父の存在です。自分を十分知り抱きかかえ迎えてくれる方のいる場所です(ルカ15章11-32節)。何もかも崩れて行くような中で、「父よ」と呼ぶことのできる方との関係に生かされる、これが故郷です。
ですから、「故郷」とは単に場所であるだけでなく、同時に、より本質的には関係なのです。
 
(2)展開
「天の故郷」。主なる神を、「アバ、父よ」と呼び得る者とされる生き方です。そのとき、地上にあっては旅人、寄留者―責任はあっても権利はない。権利はなくとも、責任はあるーとして冷静に生きることが許されます。主なる神は、私たちのような者に、「父よ」と呼ばれること厭(いと)わないのです。
そうなのです。神の民となる栄誉を与えておられるのです。どこかで座りこんでしまうのでも、元に戻るのでもない。神の子とされた栄誉に感謝しつつ地上で完成のない事実を知りつつ、私たちも天の故郷を求めつつ進むのです。
私は、この歩みを喜びカタツムリと自覚、自称しています、感謝。