重元ご夫妻に断られた三回、三つのこと

重元ご夫妻に断られた三回、三つのこと
                          宮村武夫・君代

 「沖縄に、石川福音教会の重元清あり」、この言葉とこの事実こそ、終の棲家と思い定めていた沖縄から、2011年5月離れる際も、その後の月日も、沖縄と私たち夫婦を結び付けてくれている、堅い絆なのです。
 1984年4月のことです、2年後私たち家族が沖縄へ移住すると公表して間もなく、重元青年が、神奈川から東京の羽村の拙宅までわざわざ訪ねて来られ、なぜ沖縄へ移住するのか熱心に質問されたのです。
 その後数年後に、横浜で重元ご夫妻の結婚式。それは石川福音教会牧師赴任への旅立ちでもありました。丁度関東へ出張中の私は、沖縄の教会を代表しご夫妻を迎える思いで結婚式に出席しました。ところが結婚式前夜、浴室でメガネを割ってしまい、終始うつむき加減で、しかし心は喜びに満たされていたこと,今も忘れられない思い出です。

 私たち夫婦の人生に重い意味をもつ、石川福音教会の重元ご夫妻。そうです。その重元ご夫妻に三回、三つのことで断られました。
最初は、当時新約教団が備えた宣教援助金を、石川福音教会や重元ご夫妻の経済状態を心配する方々や常議員を代弁するように、重元先生に一度ならず申請を勧めても、その度に物静かにきっぱり拒否されました。大きな台風の度ごとに、石川福音教会の建物を心配する人々の少なくない頃の話です。
自主独立の歩みに基づく今日の会堂までの歩みは、今後もなお続くと期待される深い励ましの営みです。

二番目は、伊江島移住です。伊江島中高キャンプ、さらに伊江島全体の宣教を夢見て、重元ご夫妻の伊江島移住とそこを根拠に、中北部の宣教展開を考えるようにとの、僭越な話は、当然なことながら、真剣に検討される前の段階で消えました。
後に私自身が伊江島移住を考えた際も、「沖縄に来た時と話はちがう、行きたければ一人で行けば」と、君代にきっぱり言われました。伊江島主僕高校は見果てぬ夢となりました。
しかしこれまた、重元先生を中心に長い年月継続された、春夏伊江島中高生キャンプにおいて蒔かれた種の実りを、今日思いを越えた深さと広さで見るのです。

三番目は、首里福音教会後任牧師についてです。日本センド派遣会を通して海外宣教の働きを進めるため、新しい牧会者を首里福音教会に招くにあたり、第一の、あえて言えば唯一の候補は、重元先生でした。この話も、重元ご夫妻の石川福音教会への愛に基づく拒否に直面。
その後の事態は、首里福音教会から離れて住む私たちのアパートにおいて、石川福音教会主催の私を講師とする連続的研究会を開催するなど、私たちを石川福音教会の一員のように全教会の兄姉で迎えて頂きました。
2011年5月、私たちが沖縄を離れるに際しては、送別会ではなく壮行会を石川福音教会を会場に、主にある多くの方々に呼び掛け、開催して下さいました。
その後、毎年2月の沖縄訪問や熊本のキャンプにより、石川福音教会の主にる兄姉との交わりは、ますます深まっています、感謝!