「・・・私は、非常に考えさせられながら沖縄から戻ってきました」。


 「・・・私は、非常に考えさせられながら沖縄から戻ってきました」。

 モルトマンが『希望の神学』を世に問うた1964年、私は、ニュ―イングランド留学2年目でした。1967年帰国後、同書の日本語翻訳を翻訳を最初に読んだとき、背景についての知識を持たないながら、何かとても波長が合う感じをしたのを今も覚えています。帰国の年に生まれた長男の名前は、ローマ8:25の忍耐と希望から、忍望(にんぼう)と付けていました。

その後、時と場所を隔てて、2003年4月モルトマン先生が沖縄を訪問、一連の講演をなさッと時、貴重な経験をしました。今回の『わが足を広きところに モルトマン自伝』の485−487頁に、その時のことをモルトマン先生は、簡潔に記述なさっています。その最後の一文が、実に印象深いのです。
 「・・・私は、非常に考えさせられながら沖縄から戻ってきました」。

 蓮見和男・幸恵ご夫妻 
 モルトマン先生からの影響は、通訳をなさった蓮見ご夫妻との出会いにより、決定的に深められました。2003年4月24日〜29日、J.モルトマン先生が沖縄を訪問された際、蓮見ご夫妻がご一緒に同行なさったときのことでした。
通訳の労で多忙な蓮見和男先生。しかし幸恵先生は、比較的ゆとりがあるご様子。ごく自然な流れで声をお掛けしたのに、間もなく話しが弾み、先生が日本女子大のご卒業生(英文科と思ったのに実は家政科)であることや、ある期間『聖書』の授業を私が日本女子大で担当したことなど話題が大いに展開したのです。
 そうした中で、幸恵先生が女子大の聖書研究会やその卒業生会のことをご存知ないと知りました。失礼を省みずに言えば、「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある」(ローマ11章4節)状況の中で、「私だけが残されました」(ローマ11章3節)と訴えるエリヤの姿を連想したのです。
 そこで、聖書研究会のOG会の存在を、あたかも自分がそのメンバーであるかのように心を熱くしてお伝えし、また新井明先生の著書、『ユリノキの木陰で』(日本女子大学英文科、2000)と『湘南雑記――英学徒の随想』(リーベル出版、2001)をお貸ししたところ、幸恵先生は、滞在中のホテルで、これらに目を通してくださいました。
 他方、蓮見幸恵先生について、このように優れたOGの神学者が現に活躍なさっているとM姉を通し聖書研究会のOG会にお伝えしました。
ですから幸恵先生から、「過日女子大聖研のOG会の方からお便りをいただきました」と連絡を受けた時には、とても嬉しくなりました。
 青函トンネル工事で、北海道側からと青森側から掘り進めたトンネルが一つになった瞬間の喜びに比すべきもの、オーバーに言えばそうです。

 蓮見和男先生との出会いは、モルトマン博士招聘委員会編、『人類に希望はあるか』(新教出版社)が糸口でした。同書を沖縄キリスト教書店で目にし、拾い読みしていると聖公会の会館での講演会『平和の建設と龍の殺害―キリスト教における神と暴力』のことを蓮見先生が記しておられる文章が目に止まりました。
 講演会の質疑において、質問はすぐに同時通訳しドイツ語で伝えるが、モルトマン先生の回答を日本語に通訳することは体力的に疲れるので、モルトマン先生の回答は英語で、それを日本語に通訳する段取り。ところが英語の通訳者の都合でピンチヒッターと選ばれた宮村が、「すばやい、しかも的確な通訳」(同書、95頁)をしたと英語力について言及。
 さっそく手紙を差し上げました。あれは英語力ではない。神学力によるのだと。モルトマン先生と同様、私なりに聖書ですべてを見・読み続ける営みを求めてきたので、モルトマン先生の話の大意を、実際に耳で聞く前に心で受け止めており、耳で聞く際は細部に意を注いで通訳したのだと。
 この手紙が切っ掛けとなりその後便り・資料のやり取りが始まったのです。
 さらにご夫妻を訪問のした際バックナンバーを受け取り、その後隔月に恵送して頂く、『ドイツ教会通信』の熟読は、至福の神学力養いの機会です。