「牧師さんそこまでやるか」と日野原先生



「牧師さんそこまでやるか」と日野原先生


「・・・末弟が足立で牧師をしているんです。私とは12才違うから、もう子供の頃から私たちはけんかしたことない。3っ違いの弟はもう私にいじめられて‥‥、歳が近いとそういう関係があるんですが、12も離れているとそういう関係はないですね。その末弟のところに行くと、私は損得とか、どうのこうのという関係なく、本当にリラックスして話が出来るし話が聞ける。

 私は生まれたのは、東京深川下町ですが、5才ぐらいの時に母が私たち兄弟を連れて、いわき市の奥の成沢炭鉱方に行くことになって‥‥。ですから東京下町の影響がないはずなのに、だんだんそれが出てくる、つまりですね寅さんが出てきた。寅さんは浅草を中心とした人で、私たちは深川です。

「私、寅さんの恰好で童謡説教やったらどうだろうか」と末の弟のところで私話したのです、そしたら「おもしろいね」と三郎牧師が言ったんです。次の日柴又へ行った。行った方はご存じのように、あそこは寅さんの記念の寅さんグッズがいろいろ売っているんです。帽子から雪駄まで一揃い――私ちょうどその時たまたまお金を持っていた、それで寅さんグッズ一揃い――買った。義姉(三郎の妻)もちょっと驚いたんですね。まさかそんなにお金を持っていると思わないのに、パッと2万円ぐらい払ってサッと帰って来た。

それで沖縄に帰って来た。
「それを着てやる」と言ったら、君代が「バカ言っちゃ困る」。それでもねせっかく大枚払って買ってきたんですからね、どういうふうにしてこれを着たらいいか。私が考えたのはショック療法。
 その当時、週に2〜3回ライフセンターという書店で君代がアルバイトしていた。とにかく牧師給も牧師館もないのですから、働かなければ生活できない。
 私は昼間は自分の部屋にいて勉強したりなんかして、夕方になると君代を迎えに行く。その迎えに行くときに帽子から雪駄まで全部して、それでパッと店に入って行ったら善いの悪いの言っている時間がない、これにつきると思って行ったんです。残念というかよかったというか、お客さんがいなかったんですけども。これは私にとってね、吹っ切れたんです、もう否も応もない、それからは童謡説教と寅さんの‥・。

 おもしろいですねえ、関東と関西の受けが違う。関西の人は実によく反応するんです。私寅さんの帽子をかぶっているでしょ、それで電車に乗っているとね、フッと(何も言わないですよ)見ると帽子の裏に、『男はつらいよ』と書いてある、それを見ると関西の人は「ああ寅さん」、「ああ、あれは私の舎弟なんですよ」という話からね「どうして?」ということで話が展開‥‥‥。
 東京でそれをやったら、とてもダメなんですよ。

 とにかく童謡説教・寅さんスタイルはだんだんエスカレートしてきて、これを着て飛行機に乗りたいと言ったら君代が「私は寅さんと結婚したんじゃない」と言い出して、残念ながらJALに寅さんのスタイルで乗れなかったというのが今もって私の痛恨の‥・。

 とにかくそういったことでね、童謡説教その中心は〈童謡の中に驚くべき聖書と共通したメッセージがある〉、というふうに経験してきた。それは私にいわせれば第一期(第一次)の童謡説教なんです。

 思いもかけず脳梗塞になって関東に戻ってきたときに何をするかということで、ある人が〈旅芸人みたいな、声がかかる所で説教して何がしかの謝礼を貰って、それで生きている、それで生業(なりわい)としている〉と率直に書いてくれたんですけど、その通りなんですね。定収入というのがないんですから、あっちの教会に行き、こっちの教会に行って、そして‥・。
 しかし、それによって支えられるというのは私たち夫妻にとって大きな経験でした。
 私は長男でした。それなりの父親の事業とかなんとかあったんですけどパッと‥‥‥。そのままで40代を、そのままで60代を生きていく‥‥‥。ところがですね、神さまの言い分がそういう時にはっきりあるんですね、その時は分からなくて。・・・」