―私たちとともなる被爆者キリスト―

―私たちとともなる被爆者キリスト―

 制約の中で聖書をメガネに、地震についても思考を停止せずに向き合う責任を覚える中で、2011年11月に、青梅キリスト教会で話す機会を与えられた、下記の講演の内容を再考し。次のステップの導きを求めたいのです。
「浅沼ご家族とともに」―私たちとともなる被爆者キリスト―
2011年7月25日
宮村 武夫 

〔1〕序
 脳梗塞の後、ちょっと歩くのは不便なのです。しかし飛ぶのは全然問題ありません。ポ−ンと飛ぶのです、話が。
レジメを皆さまお持ちでしょうか、レジメに従いお話しさせていただきます。

 「浅沼ご家族とともに」、これはかなり個人的な主題です。
このような主題で話をするのは、私も余り経験がないことです。
「浅沼ご家族とともに」の主題での集会は、2010年1月18日(月)に最初計画されていました。
なぜこの題を選んだのか。話は簡単です。私ここに持っていますA4で86ページの記述、これは浅沼寛司さんが洗礼を受ける際、自分の経験を書いた証です。
私は1962年に牧師になり、それ以来かなりに年数が経過し、それなりの数の方々の洗礼に関わってきました。私が関わった人々の証の中で、間違いなく一番長い―長ければいいというものではありませんけれども−。
浅沼さんの証が青梅から届いた時、私の第一印象は、詳しく書いたと言うより、「思い切ってしつこく書いた証だな」でした。私は自分ではあっさりしていると自覚しています。しかし妻君代に言わせるとしつこいそうです。確かに時々しつこいものがたまらなく好きになります。そこで浅沼さんの証を黙って見過ごすことが出来ない。それに対して応答したい。
 浅沼さんが書いた文章に誰が応答するだろうか。第一これを読むのも大変、しかしこれは黙って見過せない。そんな自問を繰り返している時に、鮫島夫人から月曜日の集いで何か話すように連絡を受けました。なにはともあれ証に応答する。応答するとは浅沼家族に対する応答だ。浅沼家族に対する応答であれば、「ともに」を抜きに考えられない。
 今日のお話の中で、何か皆さんにお伝え出来ることがあるとすれば、それは「ともに」をめぐってです。
「ともに」、そうです。聖書は「神は我らとともに」が中心です。聖書の神さまは「ともに」の神さです。聖書の神さまは私たちを創造なさられたとき、「ともに生きる者として創られた」のです
私たちがともに生きる者となるために、「神さまは私たちとともに生きてくださる」、この事実こそ、人間存在の源泉です。

2010年1月18日(月)の集いためつけた主題に、一年数か月後の2011年7月25日現在、なお一層の重みを覚え、直面しています。
  皆さんはいかがですか。私は江戸系いろはカルタが好きです。たとえば、「犬も歩けば棒に当たる」。この言葉を25年前、青梅から沖縄へ移住した当時、しばしば考えました。その頃でも青梅では犬を離し飼いにしてはいませんでした。しかし車社会の沖縄で車に乗っていると、犬が歩いているのを見かけたのです、一匹で。その姿を見過ごせなくて、何回も同じ質問を、車の隣の席に座る君代にしつこくしました。

「あの犬、何か目的あって何処かへ行くのだろうか、それともただ何となく歩いているのだろうか」。何回その話をしたことか。
ところが解答があったのです。沖縄の離島で飼われていたワンちゃんが、近くの別の離島に住むワンちゃん・マリリンに会う目的で、短い距離にしても海を泳いで渡って行くとの報道。ですから犬は目的を持って歩く。それから歩いている犬を見る目が少し変わりました。
 
その後、「犬も歩けば棒に当たる」は、沖縄聖書神学校の学生たちとの対話の中で、新しい展開をしました。
「犬も歩けば棒に当たる、人間歩けば恵みに当たる」。
目的があって歩む人も、ただ歩いているに過ぎなく見える人も、犬が棒に当たるように、私たちは恵みに当たるのです。そういう意味で偶然はありえない、偶然はない。だから私たちは犬のように歩いているに過ぎない、存在させられて生きているに過ぎない。そうなのです。それで良いのです。

しかしそうではありますけれども、その現実の中で、驚くほどの棒に当たる、恵みに当たり生かされる事実を経験します。
 そうです。昨年2010年1月18日から延期になって、今日2011年7月25日までの期間、私は犬のように歩いていたのです、そして恵みに神の恵みに当たったのです。同様に浅沼ご家族もまた恵みの棒に当たったのです。犬と一緒にしたら失礼ですけど、歩んでいると恵みに当たる事実を何とか明らかにしたいわけです。
「ともに生きる」とは、犬棒神学。私たちは歩いていればいい、生きていればいいのだ、かならず恵みに当たる。生きているのが、生かされているのが楽しいのです。

 では私は、どのような棒に当たったのか。
2009年12月18日にかなり大きな棒に当たったのです。−私は脳梗塞を発症したのです−
その日、私はいろいろなことで疲れ横になっていました。君代が帰宅したので起き上がろうとしたとき、左足がガクン。私は一晩眠れば治ると威張っていたのです。ところが君代はすかしたり、おどかしたり、とにかく一緒に病院に行こうと言い張るのです。そうです。同じ病を経験した母親の様子を君代は覚えていたのです。
救急病院に行き検査すると、脳梗塞発症が判明。二人にとり、家族にとって、また私を取り巻く人々の何人かが、「先生、病気になって良かったね」と心から言ってくださる事態が生じる、それが一歩でした。
 私たちのフォ−・アフタ−。ビフォ−は脳梗塞発症前、アフタ−は脳梗塞後。ビフォ−・アフタ−と言い合うほど私たちの生涯にとり深い意味を持つ発症でした。
 リハビリを中心とする3ヶ月入院、もうなんと楽しかったことか!入院中のある時から、夜となく昼となく、私のうちに一つの事態が生じたのです。からだの奥から静かな笑いが満ちてくるのです。箸がころんでも笑う年頃の娘のあり様で、「ウフフ、ウフフ」なのです。脳梗塞のため、どこか頭のネジが緩んでしまったのではないかと君代が案ずるほど。
そのような日々の中で、詩篇126編、その1〜3節を読んでいるとき、「これだ!」と心に受けとめたのです。
「主がシオンの捕われ人を帰されたとき、
私たちは夢を見ている者のようであった。
そのとき、私たちの口は笑いで満たされ、
私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。
そのとき、国々の間で、人々は言った。
『主は彼らのために大いなることをなされた。』
主は私たちのために大いなることをなされ、
私たちは喜んだ。」

リハビリの一つは、言語治療です。舌の動きに集中しながら発声訓練。「舌、舌」と生涯でこれ程「舌」を意識した日々はありません。「私たちの舌は喜びの叫びで満たされた」とは文字通りの実感なのです。
誤解を恐れないで言えば、脳梗塞発症とリハビリの経験、小さな小さなスケールではあっても、バビロン捕囚からの解き放ちであり、その後落ち着いた状態であっても、解き放ちの喜びを日々の生活の基底に覚えるのです。
解き放たれる喜び、解き放たれて生きる喜びは、自分では考えることが出来ないような存在の奥底からの喜びなのです。
 一つとても心配したことがあります。夜、寝ている間に、看護士さんが時間になると病室の皆がちゃんとしているか確認するため病室を巡回するのです。巡回の看護士さんの足音が分かっていても、「ウフフ、ウフフ」の笑いを抑えられない。
「宮村さん、いよいよおかしい」と思われないかと案じ、笑いをこらえようと思えば思うほど「ウフフ、ウフフ」。

 本来でしたら、今日このように一緒に集まっている集いは、去年の1月18日に終っていたはずだったのです。それが私の脳梗塞発症のため2011年7月25日の今日になったのです。
 本当に私は基本的にはしつこく、基本的には罪深くて、基本的にはああだとかこうだと言いたがります。しかし同時に不思議な喜び、これも事実でして・・・。
 ですから「なぜ脳梗塞になるのか」とか「リハビリはどんな意味があるのか」といろんなことが言えるでしょう。しかし私にとってリハビリはもう完成しているのです。リハビリの一番の目的はもうすでに与えられています。この喜び、脳梗塞発症とリハビリを通しての存在の喜びは、単なる言葉の問題ではなく、事実です。去年2010年1月18日には、こんな確信を持って話せなかったに違いないのです。
 ですから、やはり一つの棒、恵みの棒に当たったと申し上げてよろしいのです。

[2]被爆者キリストへのささやかな応答
 2010年3月11日の出来事は、誤解を恐れずに言えば、日本全体の脳梗塞的事柄、いやはるかにそれ以上の無比の出来事でした。
 今、私が言えることは、福島県いわき市在住の住吉夫妻との具体的なメールのやり取りについてです。住吉ご夫妻から受け取ったメールに書いてありました。そのまま読ませてもらいます。

「もっか原発被爆恐怖です。いわき市の多くの人たちは東京等に向けて脱出しました。牧師たちもある人たちは脱出しています。私は悩んでいます」と率直に伝えつつ、遣わされた地に留まり続けています。お二人とも30年以上前、神学校で授業を担当した教え子である牧師ご夫妻。
私はそのメールを受け取ったときに「クウォ・ヴァディス・ドミネ」と一言書いて返事しました。後で、ずいぶん冷たいなと思ったんですけど。
「クウォ・ヴァディス・ドミネ」と言えば、私の世代だとすぐぱっと思い出す、19551年のアメリカ映画、「クウォ・ヴァディス」(ポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチによる同名の小説の映画化)。
それはローマで大変厳しい迫害下のこと。指導者であるペテロだけは逃れて次の世代のため道を備えるようにと人々は懇願、ペテロもそれを承知してローマを後に街道を進む。と光のような復活の主イエスの姿に出会い、ペテロが「「クウォ・ヴァディス・ドミネ」(主よ、何処へ」と問うと、「ローマへ」と一言。
迫害の地・殉教の地、「ローマへ」との復活の主イエスの声を聞き、ペテロ自身もその顔をロ−マ、今、去ってきた迫害の地・殉教の地ローマ戻り行く。
その「クウォ・ヴァディス・ドミネ」の一言を住吉ご夫妻にメールしたのです。それがどういう意味で、どういう風に受け取られたかは皆さんのご想像にお任せします。
 住吉ご夫妻とメールのやり取りを続けているうちに、イザヤ書の二つの箇所を思い起こしました。これも、「犬が歩けば棒に当たる」でしょうか。様々なことを考え思い巡らしている時にているときに、ふっと聖書の言葉が思い起こされる。て。一番良いときに最適の聖書箇所を主が思い起こしてくださると思い知るのです。
「イザヤ63章9節」
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼ら
を救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からず
っと、彼らを背負い、抱いて来られた。
「イザヤ63章9節」
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っ
ていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばな
かった。「イザヤ53章3節」
 住吉夫妻とメールのやり取りをしている中で、ながら、私の心の中にこのイザヤ書の言葉が先に来たのか、『被爆者キリスト』とのイメージが先に与えられたのかちょっと判断しかねます。しかし、その二つは確かに切り離せないものなのです。
 
 「なぜ、こんなことが起こるのか」と、答えの与えられない質問が出ます。「これはなぜか、どういう意味か」と問いが湧き出ます。こうした現実の中で、私の内面では疑問の余地がない。
キリストご自身が東北の方々とともにいてくださる」、「ともなるキリスト」、インマヌエル(神われらとともに)なるお方。
 
けれどもインマヌエルの方が、どのようにともにおられるのか。『被爆者としてともにおられる』、この思いが理屈を越えて、一つのイメージとして私の内面に先に来たのです。そしてこのイメージを支えるのが、上記イザヤ書の聖句なのです。
逆に言えばイザヤ書の聖句は、私たちを担ってくださるお方、また人が顔をそむけるほどの病を知って、特にメシヤ思想の一つの流れとして、メシヤはハンセン氏病を患うお方として来たりたもうとの考えが、中心的な思想ではなかったにしても、一つの思想の流れとしてズーッとあった。今では、私はどの本で読んだのか思い出すことが出来ないのですけれども、それを聞いた時受けた強い印象が私の心の中にいつも残っており、その印象とも結びついてイエス・キリストはインマヌエルのお方なのです。

 さらにイザヤ書の聖句に重ねて、Ⅰペテロ2章18節以下が、『被爆者としてともにおられるキリスト』理解の道を開いてくれます。
 牧会書簡など聖書の他の箇所では、キリスト者の奴隷に向かって勧めをするとき、「キリストに仕えるように主人に仕える」と奴隷に向かい語り、「あなたのご主人様に伝えるのは、あたかもキリストご自身に仕えるように、この欠点だらけの主人にも仕えていくように」勧めるのです。奴隷に対して、自分をある意味で動物のように売り買いさえする主人にさえ、「キリストとして仕えていくように」と勧めるのです。
 ところがⅠペテロの手紙は違います。キリストご自身も奴隷として、奴隷の立場でそのむちゃくちゃな状態の中でキリストご自身も生きた事実に立つのです。主人の側にキリストはいないのです。まさに奴隷の側にキリストがおり、キリストも、あなたがたがそうであるように、矛盾だらけの、本当にどうにも説明のつかないような状況の中でも、父なる神に従い生きてきた。あのキリストの模範のようにとは、キリストご自身が奴隷の立場に立つのです。
Ⅰペテロ2章21−23節をお読みします。
「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。
キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」。
Ⅰペテロ2章18節以下は、本当に大切な、意味深い箇所です。
 キリストご自身は、この現実世界のいろいろな苦しみのはるか上におられ、すべてを司るお方、それはもちろんそうです。
しかしキリストは真の神であるばかりではなく、真の人として人間の側、人間の悲惨のただ中に、「被爆者としてキリスト」として存在しておられる事実の意味を私なりによく考えなければいけないのです。

 2011年5月14日、25年振りで沖縄から関東に戻り、1986年4月以来25年の沖縄で出会った方々に祈り支えられてです。
また1945年3月10日東京大空襲、1923年9月1日関東大震災を経験した深川に生まれた者として、故郷東京下町を視野に入れながら千葉県市川市に移住しまあした。
1923年9月1日大正の大震災について、私は改めて驚いています。大正大震災なんかズーッと前の話だと思っていた、小さいときから。ところが1945年の東京大空襲とその前の1923年関東大震災の期間、何と22年間。つまり大正の大震災からわすか22年に東京の大空襲・・・。
私の祖母がよく話していました、大正の大震災の時にどうであったとか、それから3月10日東京大空襲でどうであったとか。
大正の大震災後、私たちの家族は栃木県の佐野(祖母の出身地)に疎開したのです。私の父親は小学生、大正2年生まれですから。その佐野で聖公会教会学校に通ったのです、その事実を父親は一言も私たちに話さなかった。しかしズーッと経ってから、父親の従妹が「たいちゃん(父親の愛称)はね、教会学校でとても人気者だった」と話してくれたのです。
私が高校を卒業するかしないかで、牧師の道に進もうとした時、父は一言も反対しなかったのです。親戚の方々が「たいちゃん何やっているの。跡取りがとんでもない方に行っているのに一言も言わない。なんで黙っているの」と忠告しても、父は全然それに耳を貸さないばかりか、後の留学費用を含め学費など全面的に援助してくれました。その当時、私は当たり前だと思っていました。
しかし今は違います。大正大震災被災して佐野へ疎開、そこで「犬も歩けば棒に当たる」恵みの経験をしたのです。佐野の地で教会学校に行き、父の心に福音の種が蒔かれ、後には家族にまで見えざる影響を及ぼしたのです。
1923年の大震災で、加賀藩を後に新しい地で明治維新後築いてきたもの全部焼き払われてしまう。それで震災後、コンクリート中心の建物を建てたわけです。しかしそれもまた1945年に全部焼き払われて、私の従兄弟、叔母の半分は一晩で亡くなりました。

 ですから今回の3月11日の出来事―今のことから―を通して、過去−1923年の大正大震災とか1945年の東京大空襲−の意味を改めて考え始めています。
ですから皆さん過去は変わらないとよく言いますけれども、そんなことはない。過去は確かに大正12年の大震災があった事実は変わらない。けれども、それがどういう意味があるか出来事の意味は変わるんです。現在いろいろな経験により過去の意味理解は変わってくる。生の出来事などはありえない。過去の出来事は変わらない動かないと私たちは思ってはいけない。過去が変わってくる。どんどん変わってくると大げさに言ってもいいくらい、過去の意味が深まり広まってくる。ですから1923年9月1日と1945年3月10日の経験をした深川に生まれた者として、故郷東京下町を視野に入れながら関東へ戻る意識が非常にはっきりしています。ですから私たちとり一つ一つの出来事を固定したものとしてではなく、その意味が深まり行くのです。

 ですから最初に浅沼さんの証を読んだとき、「ワーッ」と思いました。しかし思いが深まってくるとワーッではなく「ワーッ」となったり」、静かに「ヮ‐」となったり、感動一つもいろいろ変化します。

 2010年1月18日に最初に計画された集会。それは固定した一つの出来事です。でもそれがどういう意味であるか、それに対して私はどういう風に備えていくべきか。「あー深川のこと」も考え、深川でのあの大正大震災から空襲までのわずか23年間にあれだけの復興、そして復興したものがもう一度すっかり焼かれてしまう。またそこからまた出直す。
「何たる人たちだ、私の父母や祖父母は」、このような思いは、私の子どもの頃にも、青年時代にも、感じたことがない。それを今は教えられてきています。

 「ともに」は、単に今生きている人との間だけではなく、過去のいろんな人とも「ともに」なのです。その事実を聖書にハッキリ書いています。「雲のような証人に」(へブル12:1)と。そして私たちもまた、雲のような証人に囲まれているわけです。
さらに「ともに」にとり、地域がとても大切です。人間は身体を持つ存在ですから、地域と関係しないで存在することが出来ません。
 しかもいっぺんに二つ、三つの土地に同時に存在することは出来られないと普通の考え、私も長い間そう理解していました。青梅にいたら寄居にはいられない。沖縄に行ったら青梅にいられないとズーッと考えていました。
ところが今そう思わないのです。新約聖書において、パウロはどこの教会の牧師ですか」と問われたら、何と答えますか。答えは、案外難しい。「ヨハネはどこの教会の牧師ですか」の問いの答えも、難しいんです。

 三つの地域と立場を拠点に、喜びのカタツムリの地域を越えた歩みが、被爆者キリストへのささやかな応答となればと願うのです。

①栃木県宇都宮キリスト集会牧師
 私は宇都宮キリスト集会の牧師です、就任式もしました。そして今回の震災を通して、改めて宇都宮の歴史を見直したのです。それは東北の玄関としての宇都宮、この宇都宮に誕生した小さな宇都宮キリスト集会内村鑑三の生涯は私にとっていろんな意味があるのですが、内村鑑三が東北・北海道に旅する度に、宇都宮に必ず降りているのです。そこで集会をしています。これから東北に行くという時に、宇都宮が、」当時、大切だった。今でも私は小さな集会で、「東北全体を考えて」と願う。ただ歴史的、地理的に東北の玄関であるばかりではなくて、祈りが東北全体に対する祈りとなるように。
 その小さな宇都宮集会が、「キリスト教一致祈りの集会」と深い関係を持ちます。
主にあって公同の教会の一致の願いをもって毎年に1月に、特別な祈祷会・宇都宮キリスト教一致共同祈り会)持っているのです。最初の集まりの時に、美しく大きな松ヶ峰カトリック教会で沖縄から送ったテープをかけて、皆でメッセージを聞いた。が第一回目の祈りの集会でした。

②千葉県市川市聖望キリスト教会宣教牧師
 東京下町をはじめ東京と隣、市川うちなんちゅうの部屋の営みの小さな一歩と大きな計画。東京キリスト教学園と同じ千葉県で近隣。

沖縄県名護市名護チャペル協力宣教師
 名護・山原から沖縄を見る。毎年2月、名護を中心に沖縄での宣教活動。
 徹底的な聖霊信仰、徹底的な聖書信仰に基づくささやかなカタツムリの歩みを。
遣わされた地・福島県いわき市に留まり続けている、住吉ご夫妻に共鳴しつつ、喜びに満たされて継続したいのです。


〔3〕『私の精神史』への応答の二つの柱
 これからの話をしたいために、今まで寄り道してきました。
浅沼寛司さんの証・『私の精神史』を、正直に言うともっと読まないと充分な話が出来ない面があります。しかし共に歩む道は継続ですから、今後を期待し、今の時点で私なりのレスポンスをしたいのです。
 まず、柱を立てる必要があります。細かいところはいろいろあり、それはそれで大切です。しかし細かい点を細かく見ていくためには、家に例えれば柱に当たる骨組みの把握が欠かせません。私は、浅沼寛司さんの証・『私の精神史』を貫く二本の柱を見ます。
①現在と過去と②現在と将来の二本の柱です。

(1)現在と過去
 浅沼寛司さんの証・『私の精神史』の最初に、目次が登場します。
何を読むにしても、目次はとても大切です。
何が(主題)書かれているか、いかに(展開)語られているかが明らかにしています。
そうです。目次は、全体と細部の関係を示して、書き手・著者が、なぜこのこと(主題)を、このように(展開)書いたか、著者の言い分・意図を明らかにしていきます。
浅沼寛司さんの証の目次で際立つのは、過去、現在、将来と全体を三分している点です。この事実に基づき、私は証を貫く二本の柱を認めたのです。
しかもすでに申上げてきたように、過去は固定されたものではない。現在が過去を変え続ける、少なくとも過去の意味を変え続けていく、現在と過去の関係はいかにも豊かなものなのです。
 浅沼さんの文章も、単なる時の流れに従い書かれているものではありません。何月何日に、このことがこのように起きた、次に何月何日に・・・とは必ずしも書いてはいないのです。
ではどう書いているのか。
過去の一つの出来事を書くと、その事実を現に今どのように理解しているか、もう一つの事実と練り合わせ織り合わせて書いています。
このように現在と過去の関係を考える時、私たちの理解を深める大切な鍵を、ヨハネ福音書9章の初め、主イエスと弟子たちの対話を伝える記事に見出します。
「またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。』
エスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです』」(ヨハネ9章1−3節)。


あの生まれつき目が不自由な状態で生まれた人の現在(障害を持つ事実)について、弟子たちの言葉、「本人か親か(だれが罪を犯したからか)」が明示している要点は、因果応報−原因があって結果−の断定です。過去が現在と直接的に結びつき決定的に左右するのです。
主イエスは、まさにこの結び目を断ち切るのです。

皆さんの中で、精神科の診察や治療を受けた方がおられるかどうか知りません。
もし行った経験があるとすれば、過去のことを根掘り葉掘り聞かれる場合が少なくなかったと推察します。
 ところが、沖縄での私の主治医・中嶋医師は東大医学部の上田敏先生のリハビリの考え方を精神科に適用されるのです。どういうことかと言うと、ある特定の過去と現在の状態を、原因結果の関係で断定的に結び付けないのです。あのことが原因でこの結果になったのであるか、ないかは確定できないとし、断定しないのです。 

この事態をめぐり、もみの木幼児園時代忘れることが出来ない経験をしました。
あるお母さんが二人のお子さんを連れて園に来られたのです。上のお姉ちゃんに障害があるから、もみの木に入園させたいとのお考えでした。
話を聞いて、私の受けた印象はこうです。二番目の赤ちゃんが生まれて、お母さんが二番目の赤ちゃんの世話で、上のお姉ちゃんの要求を全部応えられない状態にあった。あの時、お姉ちゃんがお母さんに呼び掛け要求したのに、「自分が無視したから、この子は障害になった」とまじめに考えている様子なのです。「どうしてそんなことを言うの」、「お医者さんに言われた」と。「母原病」と言う嫌な言葉が流行っていた時代背景でしたが。
 
一つのドグマ、一つのイズムが生きた人間を縛る。それは最もすばらしいはずの医学の関わりでも起こり得る。
宗教の関わりでの実例を、私は嫌というほど見てきました。それだけではなく、医学の関わりでも、その可能性があると認めざるを得ないわけです。

そうした中で、中嶋医師は勇気を持って、因果応報的な観点から、根掘り葉掘り生育について問いを重ねたり、断定したりしないのです。中嶋先生が言われるのは、「火事がバァーと燃えていれば火を消す、そのために薬物を使う」。課題は、その後にバッラクであっても建物を建てること・生きることにあると。薬を使うにしてもいろいろな考え方があるわけです。
中嶋医師は私に、最初の段階で、「宮村先生、よく認めましたね。自分が病気だと認め、病院に来られましたね」と話されたことがありました。
また中嶋先生は一切の例外を作らないのです。私が牧師であるとかなんとか、病院に行ったら、特にその治療室に入ったら問題ではない。
 そこでは私は一個の人間として、医師も一個の人間として、ものを考える。生きた人間と人間の出会い。
そこでは火は燃えている―躁の状態、鬱の状態まさに火事の状態―だから薬を使う。で私はそれを認める。認めることは出来たのですけれど、初めの頃はなかなか定期的に飲み続けることが出来なかったのです。もう自分で良くなったとか。悪い状態であれば、飲む気力もない。
そういった状態の中で、中嶋先生は、とにかく火を消す。掘っ立て小屋でもいいから建てていく、リハビリの考え方を実践なさる。
私が状態が良くなった、治ったみたいと申し出ても、「宮村先生、生涯直りませんよ」とはっきり釘をさす。だから生涯直らないけれども、生きて行くのだ、生きている事実、生かされている事実が肝要。直ることが目的じゃなくて、生きている意実が中心で、その中でどういう風に生きていくかが問われている。
 中嶋聡医師は、説教牧会者としての私の説教を、忠実に深く心と思想と生活で受け止めて下さっていました。先生の著作に私の説教の共鳴を聞くのは、励ましであり慰めでした。

(2)現在と将来
 ヨハネ福音書9章の初めで言えば、「神のわざが現れる」や「神の栄光が現れる」、つまり将来・未来との関係です。
過去との因果関係を切り、過去に決定的に支配される束縛から解き放たれるだけではないのです。もっと積極的に、過去が変っていくだけではなく、将来・未来の展望。その意味で、現在と将来の関係なのです。
現在と将来であれば、「ボタンは下から」です。将来・未来から現在を見るのです。さらに「終極的な将来は何か」と言えば、「聖書以外にない」と考えています。
 
今後、浅沼さんが書いたものと対話して行きたい課題の一つは、将来についてです。浅沼さんの証では、84ページ以降が直接将来に関わります。
将来に関係する部分が少ないように見えます。けれども浅沼さんご自身は、「『私の精神史』は思い切って詳しく、余計と思われることまで書いてみました」と意識し実行しています。
どうしてそんなことをするのか。私に言わせれば、そこには、ちゃんとした意図があります。
ものを書くのは、大変な営みです。ものを書くのは自分の中のものが溢れ出てくるから。確かにそういう面もあるけれども、私に言わせれば、ほとんど自己否定です。「このこと書いていいかな」、「こんなふうに書いていいのだろうか」。その自問の度ごとにいちいち、いちいち己を捨てて行くのです。自己否定し消して、消して。
それは私が言うだけでなく、大江健三郎も、「消して書く」と同じことを語っています。
ですから、浅沼さんの証86ページ。多いなあと受け止めますけれど、おっとどっこいです。これだけを書くために消した量はどれだけのものであったか。どれだけ消したか、どれだけ捨てたか。消しに消し、捨てに捨てた結果が、私たちの前にあるのです。
 このような意味での「将来」についての箇所です。

 浅沼さんから聞きながら、以下応答したいのです。
イエス・キリストの復活の事実と、復活の恵みの波及である、ががからだの贖(あがな)い、それこそ、私たちの揺るがしがたい確定的な将来です。使徒信条の最後・頂点で信仰告白するように、罪の赦しが確かなことであり、永遠のいのちが確かであると全く同じように、この二つの恵みと全く同じく私たちが身をもって経験するのは、からだのよみがえりです。
 浅沼さん、また浅沼さんの家族に対して、「私がともに生きる」と言う場合、何をもってともに生きるのか、私はこのローマ人への手紙8章23節に心を注ぎます。
「そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」。
 私たちにはすでに初穂−全宇宙の完成・私のからだの完成の最初の保証−が確かに与えられています。そうです。聖霊ご自身が与えられています。
聖霊ご自身が浅沼家族の一人一人に与えられています。その恵みの事実は、全被造物の完成、私たちのからだの完成(キリストのからだに似るものとなること)の確かさを示すための手付金であり、保証です。
 
聖霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら」、そうです、うめくのは正常なのです。
しかし何のためにうめくのかが問題です。「うめくのが悪い」「うめかなければ善い」、そういう話ではない、何のためにうめくのか。確かにうめいちゃいけないことのため、うめく必要のないことにうめいてはいけない。
しかし、うめかなきゃならないのに、うめかないのは異常なのです。
ですから、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいるのです。このためにうめくのは正常であり、このためにうめかないことは異常なのです。
 鼻が高いの低いの、顔がどうのこうのなどと言っておられない、そんな暇はないのです。もっと私たちはうめかなきゃいけない、もっと私たちはすばらしいものが約束されているんだから、その到達のためにその完成のために。そしてその望みが確かであればあるほど、私たちはどんなことでも言い訳しない。どんなことでも言い訳しないで、主からのくびきとして負っていく。そうした清々しさ、それが心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望み(希望)。将来は希望です。与えられた持ち場・立場に留まり、現在は忍耐するのです。
 同じことをピリピ人への手紙3章21節で、もっと直接的に提示しています。
   「キリストは、万物をご自分に従わせることのできる御力によって、
   私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光のからだと同じ姿に変えて
   くださるのです。」
 そうです。キリストは創始者、キリストは宇宙万物の保持者です、今も。そして宇宙全体を完成に導く方なのですが、そのお方が集中的に私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
 被爆者キリストはそれが自己目的ではない。被爆者キリストは、私たちの一番どん底に来たお方です。どん底にある私たちとともにおられて、ご自身の栄光のからだと同じからだに変えてくださる。そのプロセスとして、今の歴史が進展している。ですから、一番下も下であれば、一番上も上なのです。

〔4〕集中と展開
(1) 集中、「ともに」
「私たちとともなる被爆者キリスト」は、私たちの将来・未来に対して確信を与えてくださるばかりではないのです。私たちの日々の生活で、苦闘しつつ耐えて生きる原動力をも与えてくださいます。それも、「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11章29,30節)とあるように、軽やかに耐えていくエネルギーが秘められているイメージではなでしょうか。 

東北の方々とともにある被爆者キリストの励ましは、沖縄から関東に移ってきた私たちとともにと広がります。そうです。被爆者キリストは、A4で86ページの『私の精神史』に記述されている現実を生きている浅沼家族とともに歩んで下さいます。
被爆者キリストがともなる。被爆者キリストがそちらの方々とともにいてくださる、こちらの人々とともにいてくださる。だから、縁もゆかりもないと家族、全然性格も気性も能力も立場も違う私たちが、なおともに生きる・・・。
 「ともに」とはどういうことか?浅沼家族とともに、神は我らとともにと言いますが、「ともに」とはどういうことなのか。
私に言わせれば、やはり「存在の喜び」と深く関わります。
私が自分で自分の存在を喜ぶ、私が浅沼家族の存在を喜ぶ。しかし「存在を喜ぶに先立って、私たちの存在が喜ばれている。神様は私のような者の存在を喜んでくださっている、そうでなければ創造なんかなさいませんよ」と恩師メネシェギが教えてくださいました。神さまが喜んでくださっている、それは、あなたが存在している事実の何よりも確かな証拠だ。神さまは浅沼家族を喜んでおられなければ、浅沼家族は存在しないよ。その事実の確信が「ともに生きる」ことではないか。

(2) 展開「はじめは小さく、計画は大きく」
 今日の集まりは、失礼ですけれど、小さなものです。明日の朝日新聞に出ますかね、「昨日の講演会、『浅沼ご家族とともに』は、沖縄から戻った宮村武夫牧師による、さすがなお話」と。明日の新聞が報じますか、一面とは言わないまでも、何面かに出ますかね。出ても私は驚かない、いや出て当然だと思います。しかし向こうが当然だと思わない、残念ながら。
 しかし私たちがやっている小さな営みは、公(おおやけ)のことです。今日の集会は、見たところは小さいけれども、背後にある計画は大きいのです。
どんな風に大きいか、一つの側面はこんな点です。私は浅沼さんの証・『私の精神史』を読みながら一つ強く感じたのは、浅沼さんの専門であるロシア語のことです。
 私は今、日本センド派遣会の総主事です。その関係で、5年前キエフ神学校で講義する話が進んでいたのです。ウクライナキエフ神学校は、とても重要な神学校です。そこで、日本で長年散々苦労して働いてきた、リーズナー先生などセンドの宣教師方がしばしば授業を担当する機会があり、私のことも先方に伝えてくださったのです。
その結果、二週間の予定でガラテヤ書の集中講義を持つ目標で連絡が交わされたのです。
 ところが、予定していた時のため最終準備する前後から、私が鬱状態になり、結果として話が駄目になってしまったのです。
私の生涯に幾つか、「できなかったなあ」、「できてないなあ」と挫折があります。
そうした中でも、あのウクライナキエフ神学校でガラテヤ書集中講義を実行できなかったことは、特別に残念で忘れることが出来ません。
ここからは、ささやかな祈りです。主が良しと許してしてくださるなら、あのときガラテヤ書から話しておきたかったことを、浅沼兄の協力を得てロシア語に翻訳しで出版することが出来たら。
それが許されるならば、聖書を日本でどのように読んでいるか伝えることができます。それは、日本において主なる神がどのような恵みを注いで下さっているかを伝えるのに通じます。
 ですから『浅沼ご家族とともに』は、今日の集会で終わりではないのです。主がこれから、私たちを通して何をなしてくださるのか待ち望むのです。いろんなことをしてきた私たちが、主が許してくださるなら、いつの日かガラテヤ書注解のロシア語翻訳本を発行したいのです。それは、広がりが持つセンド国際宣教団の働き全体の中で、それなりに用いられると期待できます。主が浅沼家族との出会いの機会を与え、今日、この集いに参加させて下さっています。

「はじめは小さく、計画は大きく」です。―『浅沼ご家族とともに』−私たちとともなる被爆者キリスト−。「ともに」を、それぞれの立場で大切にしたいのです。「親子がともに」「夫婦がともに」、そして「Aさん家族とBさん家族とともに」、はじめは小さく、しかし大きく広がり、豊かに導かれて行くのです。
 月曜聖書研究会が、小さな集まりを重ねて来られました。続けてきて下さったそのことのゆえに今日の集会があります。これからも主がどういうことを成して下さるか期待を持って待ち望みます。
本日は長い時間、お付き合いをありがとうございました。
一言お祈りをさせていただきます。

(お祈り)
 父なる神さま、浅沼ご家族とともなる歩みは短いように見えます。けども、それぞれがその短い期間に出会い、また、歩みを別々の所でなしてきた背後にどんな過去の積み重ねがあるかを覚えます。そして「ともに」の背後に、その根底に、いつも「被爆者キリストが私たちとともに」の事実・十字架の事実を覚え感謝します。
この「ともに」は実に波紋のように広がり行く。小さな存在である私たち一人一人、いろいろな制約を担っている私たちそれぞれが「存在の喜び」の一つの喜びの顕れとして「この方とともに」、「この家族とともに」と、何と多くの可能性に満ちているのでしょうか。主が私たちに対するご期待は何と多様で大きな広がりを持っているのでしょうか。
 どうか私たちが「ともに」生きるその責任を忠実に果たし、特権を活用し続けることが出来るように、聖霊ご自身の豊かな導きを与え続て下さい。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。   アーメン