【科学の本質を探る㉜】脳科学の未解決問題(その1)疑問視される脳機能局在論 阿部正紀

【科学の本質を探る㉜】脳科学の未解決問題(その1)疑問視される脳機能局在論 阿部正紀

前回は、クーンのパラダイム転換モデルは厳しく批判されていますが、現実の科学の世界では、パラダイムが存在し、科学者は通常はその枠の中で研究していることをお話ししました。

今回から数回にわたり、現在の脳科学の分野の未解決問題、特に意識と脳に関する謎を探ります。問題を解決するためにいろいろな説が提起されていますが、定説(標準的なパラダイム)となるものがないことを明らかにします。

【今回のワンポイントメッセージ】
•現在、脳機能局在説(脳のいろいろな機能は脳の局在した各部位で行われると考える)が疑問視され、脳の全体が一つとなって機能を担うと考えられている。しかし、これを説明できる定説は存在しない。

疑問視されている脳機能局在論
第16回で紹介したように、脳には脳神経細胞ニューロン)が約1千億個存在し、神経細胞1個当たりに数万個のシナプスがあります。シナプスを介して神経細胞が複雑に結合して作られた神経回路(図1)が脳の機能をつかさどっているとされています。

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http://news.mynavi.jp/news/2015/01/24/037/ に公開の画像を改変)

さらに、MRIなどの脳画像法や神経細胞の電位を測定する技術を用いた研究から、脳のさまざまな機能は、脳の局在されたそれぞれの部位で行われている(図2)と考えられています。これを「脳機能局在論」といい、現在、医学界では定説とされ、治療に応用されています。

しかし、脳機能局在論脳科学者によって疑問視されています。

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(http://www.js-brain.com/hisitu/cerebrum.html に公開の画像を改変)

脳の機能が局在していないことは、リハビリの効果からも伺えます。脳出血によって、例えば運動野(運動をつかさどっている領域)が破壊されても、リハビリによってある程度運動能力が回復します。これは、他の領域が運動野の機能を代替するようになるからで、もともと運動の機能が運動野に局在していなかったことを示唆しています。

さらに脳機能局在論は、次に述べる「結び付け問題」から厳しく批判されているのです。

結び付け問題の謎

結び付け問題とは、「脳の各部位でバラバラに生じた情報がどのようにして一つに結び付けられるのか」という問いです。現在この疑問に答えることができません。

例えば赤いリンゴを見たときに脳内で行われる情報処理(図3)で考えてみましょう。

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ウィキペディア(視覚)に公開の画像を改変]

眼の網膜で得られた視覚情報(電気信号)は、視覚野に送られ、そこの五つの領域(VI、V2、V3、V4、V5)で奥行き、色、動き、形が認識されます。その後、二つの視覚路に分かれ、紫色で示した領域では「赤いリンゴ」として図形的な認識がされ、緑色の領域で「リンゴがどこにあるか」という空間的な認識がされます。

また、図4に示した「クレーター錯視」からも、眼で見たものが脳に作り出す視覚情報と、脳の中の先入観(予備知識)が与える情報が結び付けられて画像が認識されていることが分かります。

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http://www.psy.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/craterillusion.html に公開の画像を用いて作成)

ところが、脳のいろいろな場所で処理された多くの情報を一つに結び付けている「局在化された部位」は脳の中には見いだされません。それゆえ、脳機能局在論は疑問視され、脳の機能は脳全体で担われているという全体論的な考えが多くの脳科学者によって支持されているのです。

しかし、脳が全体論的に振る舞って情報処理をしていることを具体的に説明できる定説は存在しません*。つまり脳科学の分野には、脳の全体論的な性質を説明できる「標準的なパラダイム」は存在しないのです。


[*「場の量子論」と呼ばれる物理理論に基づいて脳全体を一つとして扱うモデル(量子脳力学)が提起されていますが、具体的にどのような情報処理が行われるかは説明されていません]

【まとめ】
•現在、「脳の各部位で生じた情報がどのようにして一つに結び付けられているか」という「結び付け問題」に答えられない。
•それゆえに、脳機能局在論が批判され、脳の機能は脳全体で担われているという全体論的な考えが脳科学者によって支持されている。しかし、これを説明する定説(標準的パラダイム)はない。

【次回】
•17世紀にデカルトが信仰と科学の衝突を避けて心と身体(脳)の関係を説明する「心身の二元論」を提起し、19世紀に物理学の法則だけで心を説明する「随伴現象説」が作られたことをお話しします。

■ 科学の本質を探る
アインシュタインは“スピノザの神”の信奉者
②-④ 量子力学をめぐる世界観の対立 (その1) (その2) (その3)
⑤-⑨ インフレーション・ビッグバン宇宙論の謎 (その1) (その2) (その3) (その4) (その5)
⑩-⑬ ニュートン力学からカオス理論へ (その1) (その2) (その3) (その4)
⑭-⑯ 複雑系における秩序形成と生命現象 (その1) (その2) (その3)
コペルニクスの実像―地動説は失敗作
ケプラーの実像―神秘主義思想と近代科学の精神が共存
⑲-㉒ ガリレイの実像 (その1)(その2)(その3)(その4)
㉓-㉔ 近代科学の基本理念に到達した古代の神学者 (その1)(その2)
㉕-㉗ 中世スコラ学者による近代科学への貢献 (その1)(その2)(その3)
㉘ 中世暗黒説を生み出したフランシス・ベーコンの科学観とその崩壊
㉙ 中世暗黒説の崩壊と科学革命の提起
㉚-㉛ 常識的な科学観を覆したパラダイム論 (その1)(その2)
脳科学の未解決問題 (その1)

◇阿部正紀(あべ・まさのり)

東京工業大学名誉教授。東工大物理学科卒、東工大博士課程電子工学専攻終了(工学博士)。東工大大学院電子物理工学専攻教授を経て現職。著書に『基礎電子物性工学―量子力学の基本と応用』(コロナ社)、『電子物性概論―量子論の基礎』(培風館)、『はじめて学ぶ量子化学』(培風館)など。

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