2015年8月13日(木)③「ローマの囚人、いやキリストの囚人」

2015年8月13日(木)③「ローマの囚人、いやキリストの囚人」
ーピレモン9、10節に見るパウロから学ぶ、クリスチャントゥデイの記者魂ー

(1)ピレモン9、10節
 特別に愛しているピレモンへのパウロの手紙、その中でも9,10節は、深い励ましです。
「むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、 獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。」
 パウロは、誰が見てもローマの囚人でないのか。
いやパウロの自己意識は、そうではない、徹底態的に、「キリストの囚人」なのです。

(参照、自意識の重要性。新約聖書に見る、主イエスの自意識は、キリスト論の基盤と受け止めています)。

 その自己意識のもとでの現実、「年老いて、・・・獄中で生んだわが子オネシモ」

(2)最近も、某出版人のクリスチャントゥデイの記者、スッタフ一同に対する決めつけを経験しました。
 黒(責任を負う)と自らをかけて断言する証拠ではなく、グレー(「…思います」、他者の発言引用)との推測(責任を取らない)をもって、例えば、宮村は、ある富者に雇用されて、クリスチャントゥデイで働いていると断定。すべてをこの断定から判断、表現。

(3)宮村の反論、ピレモン9、10節に見るパウロから学ぶ、クリスチャントゥデイの編集会議に集う一同、主の僕仲間(黙示録22:8、9)との意識に生きる仲間とそこから生まれる働きの実としての記事。

(4)記者が書く、記事一本一本は、まさに「獄中で生んだわが子オネシモ」。
 聖書の重ね読み、クリスチャントゥデイで聖書を読み、聖書でクリスチャントゥデイを読む。ここに、クリスチャントゥデイの記者魂を提唱したい。