2015年6月19日(金)③「聖書をメガネに 目に見えない創造者の目に見えるみ業」その2

2015年6月19日(金)③「聖書をメガネに 目に見えない創造者の目に見えるみ業」その2
 
 前回は、美術、さらに芸術一般を聖書をメガネに考える上で、思索を続けたい興味深い以下の聖句を紹介し、
「主よ。あなたは、あなたのなさったことで、
私を喜ばせてくださいましたから、
 私は、あなたの御手のわざを、喜び歌います。」
       (詩篇92:4 新改訳)
「主よ、あなたは
  御業を喜び祝わせてくださいます。
 わたしは御手の業を喜び歌います。」
       (詩篇92:5 新共同訳)
「主よ、あなたはみ業をもって
  わたしを喜ばせてくださいました。
 わたしはあなたの手の業を喜び歌います。」
       (詩篇92:5 フランシスコ会訳)
さらにその根源として、
「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」(創世記1:31)とあるように、目に見えない創造者が目に見えるみ業をよいものとして、喜んでおられる事実を確認、ここにこそ、クリスチャントゥデイに多様な展開を期待するすべての芸術活動、文化活動の記事の基盤を見出しました。
 
この根源、本来の姿に堅く立ちつつ、人間の罪(原罪)の結果陥っている現実の被造物世界全体の実態世界を、パウロがローマ8:18−25節で描いているように、聖書をメガネに直視する必要があります。
例えば、「 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています」(ローマ8:22)とあります。
さらに、「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめき」と、被造物全体のうめきと人間・私たちのうめきの不可分の関係が見抜かれています。
この現実のうめきを深く自覚することも、クリスチャントゥデイに多様な展開を期待するすべての芸術活動、文化活動の記事の基盤です。
そうです、芸術活動、文化活動の記事の基盤においても喜びとうめき・苦悩の両立なのです。