2015年5月20日(水)③  書評再録 その5 P. ネメシェギ神父 責任編集 熊谷賢二訳 レオ一世[キリストの神秘J

2015年5月20日(水)③  書評再録 その5
書評宮村武夫
P. ネメシェギ神父責任編集
熊谷賢二訳
レオ一世[キリストの神秘J
(上智大学神学部編キリスト教古典叢書5)
昭和4 0年創文社

レオ一世の説教にみるキリストと教会
 現代日本においてキリストの教会とは何かを問い続ける限り、 信仰の先達たちとの対話を我々は決して無視できない。ぞれ故、 古代・中世教父の伝記・書簡・著書を集めた「ミーニェ教父全集」から、我々に読みやすい形に編集されたレオ一世の説教集は現代的意味を持つ。特に.、ネメジェギ神父の美しい、また.行き届いた3 0 ぺージに及ぶ緒論は,我々を真の対語へと導き、また我々の歴史的位置を自覚させる非常に有益なものである。
 レオ一位(−46 1 ) の説教全体に一貫して流れている中心主題は、 イエス・キリストの唯一のベルソナ(位格)が神性と人性を等しく有している事実の力強い宣言である。この中心主題は、 レオのトムス(司教フラピアヌスへの書簡)中に要約された形で明確に示され、さらにカルケドン信条の後半に簡潔な美しい言葉で告白されている。
 このイエス・キリストの唯一のベルゾナが神性・人(間)性を有する(二性一位格〉との主張は、レオ一世の説教において、 ある中心点をめぐり宣言され続けている事実を注目する必要がある。つまり、レオ一世は、 キリストと教会の関係という視点から、この重要な二性一位格の教理を繰り返し宣言し、展開している。頭なるキリストと肢体(神秘体)なる教会の不可分の関係を考慮に入れることなくして、レオ一世の説教を理解すゐのは非常に困難、いや不可能である。
レオ一世の説教においては、キリスト論がキリスト論として孤立しているのでなく、常に教会との生きた関係において展朗されている。そこには、キリスト論と教会論の探く、美しい結合を見る。
 レオ一世がキリストと教会の関係について宣言する場合、以下の三点が重要である。
(Ⅰ) キリストは教会の救い主
(Ⅱ)キリストは教会の模範
(Ⅲ)キリストは教会に現存される
少くとも、これら三点で、 キリストは教会と不可分に結合され, 頭なるキリストの肢体としての教会の性絡は、深く理解されていかなければならない。

[Ⅰ」キリストは教会の救い主
 レオ一世が、イエス・キリストの唯一のベルソナが神性と人性を有する事実を否定するあらゆる異端, 特にマニ教を徹底的に弾効した事実を注意する必要がある。
 イエス・キリストの唯一のベルソナが神性と人性を有する事実を少しでも軽視したり、否定したりすることは、キリストと教会の最も重要な根元的関係であるキリストによる救いを否定することになるとレオは繰り返し主張している(P. 209その他多くの例)。そうです。νオ一世にとり、 二性一位格の教理は、 最も深い点で、 彼の救済論と結びついている。レオ一世にとっては、 キリストのニ性一位格の神秘のないところに. 救いは全く考えられない。この点は全く明白であり、種々の表現を用いて、レオ一世はこの一点を繰り返し主張している。
たとえば「ご自分の神性において全能の本質を保ち続けられたお方が、 われわれの人間性.をとって卑しいものとなられなかったならば、 われわれは、永遠の死の鎖から解放されえなかったであろう。」(P. 100)
 レオ一世は、 救いを種々の言葉をもって豊かに表現している。
①「われわれは、それほど高い価であがなわれており」(P. 1 27) .、「キリストは、世のあがない」(P.298)

②「キリストの死は、 われわれを解放」 (P. 129)

③「神の御子が人の子であるという真理だけが、・・・人類の修復の原因なのである」 (P.333 )。

④特に興味あるものとして、サタンの権利を認め(人類の上に持っていた主権p.152 以下 、P.156 ) 。キリストは人性において 、つまり 、サタンに対してすらも公平に(P. 231、 P. 525 ) 勝利され給う (p.299 )。
 以上の表現はどれも無視できない。しかしレオ一世によって救済についての概念が最も強く示されているのは、「人間性の高揚」という表現を通してである。
この「人間性の高揚」 によって何が主張されているかを知ることによって、レオ一世の受肉についての理解が、 救済論に対して持つ重要性がいかに深いものであり, ニ性一位格の教浬か救済論と不可分である理由・根拠がはっきりする。
 レオ一世にとって、受肉は最も重要な神秘である。彼は、キリストの受肉の中に、全人類の救いの原因を見ている。では、「受肉」によって、どのような内容を、 レオ一世は意味しているのであろうか。
 受肉とは、永遠の神性が処女マリヤを通して人性をとる事実であり、「創造主が被造物のもとに来られたというへりくだり」(P.320) なのである。
しかし、レオ一世の受肉理解において重妥な点は、この人性がわれわれの人性としてとらえられている一事である。レオ一世は、次のように表現する。
「みことばがそのベルソナに結合される肉体をとられたという事を意味している。もちろんこの肉体というととばは、人間全体をさしている。・・・もし、ご自分の神性において全能の本質を保ち続けられたお方が、われわれの人間性をとって卑しいものとなられなかったならば・・・」(P. 100 )。それ故、「キリストが処女の胎内でとられた肉体は,われわれである」という驚くべき表現が可能なのである。(P. 518 ) 。キリス卜が、 受肉おいて、われわれの人間性をとられる事により、キリストとわれわれは. 一体とされるのである。それ故、キリストの死は、キリストと共なる我々の死であり、 キリストの苦しみは、キリストと共なる我々の苦しみであり、 キリストの復活は、 キリストと共なる、キリストの内における、我々の復活なのである。
イエス・キリストの唯一なるベルソナにおける人間性は、また人間性一般であり、 キリストの出来事は、キリストとの結合の故に、我々の身に起きた出来事でもある。
この主張を最もよく示しているのは、レオ一世がキリストの昇天について述べている場合である。彼によれば,キリストの昇天は、我々人間性の昇天(上昇)である。彼は、この点を以下のように美しく表現している。
 「聖なる群衆の面前で、人間性が天上のあらゆる被造物の上にのぼっていったのだ。天使たちの位階をも越えていったのだ。大天使たちの高座の上にまでのぼっていったのだ。・・・高く高く、どこまでも高くのぼっていった。したがって、 キリストの昇天は、われわれ自身の高揚である」(P. 8 0) 、「 われわれの卑しい人間性が天の全軍の上に、またあらゆる崇高な権天使たちを越えて、御父である神のみそばにすわるようにキリストにおいて高められた・・・」( P.396) 。

 キリストの受肉において、 神性が下昇され、それ故に、キリストと結び合う人間性が上昇する。この受肉の神秘が、我々の救いの原因である。救いとは、我々の人間性が、キリストの受肉、 苦しみ・死、復活、そして昇天にかいて、神にまで上昇している恵みを体験する事である。こうして、 我々は、レオ一世における最も重要な主張を見る。つまり、イエス・キリストの唯一なペルソナにおける神性・人性の不可分の一致は、 頭なるキリストと肢体なる教会の神秘的な一致の原因なのである。
それ故に、レオ一世がキリストにおける神性と人性の結びつきをそれ程激しく強調する理由を充分に理解できる。キリストにかける神性と人性の等しい存在を否定することは、 取りも直さず、 頭と肢体の神秘的な結合を否定することであり、キリストの神秘体としての教会の存在そのものを否定することなのである。ぞこには、教会は本来の意味では存在しえない。
イエス・キリストという唯一のペルソナにおいてに、神性と人性は不可分に存在している。ぞして、その人性は我々の人性である故に、 頭なるキリストと肢体なる数会は.全く不可分に結びついている。これが.キリストの神秘体としての教会の存在根拠である。
こうして、 たとえば、キリストの誕生は、キリストの民の誕生と同一であるとの表現が可能になる(p . 36 7 ) 。このように受肉の理解こそ、レオ一世におけるキリストと教会の関係の最も重要な基礎であり、彼の救済論の根底、 教会論の土台である。
この受肉の恵みに、 教会は洗礼の秘跡を通して具体的にあずかるのである。それ故. レオ一世は受肉の理解と洗礼の密接な関係をしばしば繰り返し主張している。たとえ
ば、「もしもみことばの神性が、人間性をそのペルソナに一致させて受けとられなかったとすれば, 洗礼の水には再生の力はなく、受難の血にも贖う力がないことになったであろう」 (P. 546) 。キリストは、受肉において、我々の人間性をとられた。それ故, キリスト者は、 洗礼によって、キリストの神泌体の肢体となる。ここに、キリストの中の我々の人間性の概念は、キリストの神秘体の肢体としての我々との概念へ展開している。

[Ⅱ]キリストは教会の模範
キリストと教会の関係は、 さらに、 キリストが頭として 肢体の模範となる意味において深められている。再生の恵み、つまり、「神性」にあずかった者として、神の子にふさわしい生活を生きよとの命令は、 レオ一世が何回も繰り返す主張である。
キリストは真の人である故、我々の模範なのである。

[Ⅲ]キリストは教会に現存される
(われらの中なるキリスト)
キリストの中なるわれらと同時に、われらの中なキリストの主張も、レオ一世がキリストと教会の関係を述べる場合に、重要なものである。
キリストの教会における現存について、レオ一世は、二つの点を特に重要なものとして主張している。
(1) キリストは、聖徒・貧者・教会の中に現存されている。
(2)レオ一世の印象深い言葉、「キリスト在世中目で見る事のできたものは、教会の神秘(複数形) に引き継がれ、信仰が一段とすばらしい堅固なものとなるために、 教義が直観と代った」(P. 397) によって意味されている秘跡論に発展していく主張。

我々は. 第−の点を決して無視してはならない。なぜなら、これとそ、 キリスト者の生活の広大な領域を示すものであり、キリスト信仰の最も重要な、 実践的な教えの土台となるものである。

第二の点では、 まず、「 キリスト在世中目で見る事のできたもの」との表現を注意すべきである。この言集で表現されている事柄は、ナザレのイエスの生涯に起こった一回限りの歴史的出来事である。この過去の出来事が、その一回性を軽視されたり、無視されたりする事なく、 いかなる意味で,現在の出来事一我らの中なる出来事−であるかという点に、レオ一世の言葉の持つ重要性がある。
「教会の神秘に引き継がれたもの」を正しく理解するためには、「キリスト在、
中目で見る事のできたもの」が、 まず.正しく理解されねばならない。「直観と代った」ものが正しく理解されるためには、「 目で見る事の出来たもの」についての「教義」が正しく理解される必要がある。言葉を変えて言えば、正しい教会論は、正しいキリスト論の上にのみ展開し得るのである。
ナザレのイエスの出来事は、確かに、時間内に起きた歴史的出来挙である。この歴史性を軽視することは, 絶対に出来ない。あらゆる型のグノーシス主義に落ち入らないために。
しかし、 ナザレのイエスの出来事を、単に時間内の出来事としてのみとらえることは、聖書の示しているイエス理解(キリスト論)ではない。キリストの死、復活、昇天、聖霊降臨の出来事は、受肉し給うたイエス・キリストにおいて神が人間に出会われる出来事と理解されるのである。

是後にこの本がレオ一世の説教集である事実を忘れではならない。キリストとキリストの教会の結びつきについての考察は、常に キリストの教会の説教を通して進められ、深められていかなければならない。ぞれが、レオ一世の場合と同様に、現代日本の教会の使命であり,教会に御言葉の宣教を過して奉仕する僕たちの使命なのである。