2015年5月19日(火)③浅沼ご家族とともに」―私たちとともなる被爆者キリスト―その4−

2015年5月19日(火)③浅沼ご家族とともに」―私たちとともなる被爆者キリスト―その4−
2011年7月25日
宮村 武夫

〔4〕集中と展開
(1)集中、「ともに」
「私たちとともなる被爆者キリスト」は、私たちの将来・未来に対して確信を与えてくださるばかりではないのです。私たちの日々の生活で、苦闘しつつ耐えて生きる原動力をも与えてくださいます。それも、「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11章29,30節)とあるように、軽やかに耐えていくエネルギーが秘められているイメージではなでしょうか。 

東北の方々とともにある被爆者キリストの励ましは、沖縄から関東に移ってきた私たちとともにと広がります。そうです。被爆者キリストは、A4で86ページの『私の精神史』に記述されている現実を生きている浅沼家族とともに歩んで下さいます。
被爆者キリストがともなる。被爆者キリストがそちらの方々とともにいてくださる、こちらの人々とともにいてくださる。だから、縁もゆかりもないと家族、全然性格も気性も能力も立場も違う私たちが、なおともに生きる・・・。
 「ともに」とはどういうことか?浅沼家族とともに、神は我らとともにと言いますが、「ともに」とはどういうことなのか。
私に言わせれば、やはり「存在の喜び」と深く関わります。
私が自分で自分の存在を喜ぶ、私が浅沼家族の存在を喜ぶ。しかし「存在を喜ぶに先立って、私たちの存在が喜ばれている。神様は私のような者の存在を喜んでくださっている、そうでなければ創造なんかなさいませんよ」と恩師メネシェギが教えてくださいました。神さまが喜んでくださっている、それは、あなたが存在している事実の何よりも確かな証拠だ。神さまは浅沼家族を喜んでおられなければ、浅沼家族は存在しないよ。その事実の確信が「ともに生きる」ことではないか。

(2)展開「はじめは小さく、計画は大きく」
 今日の集まりは、失礼ですけれど、小さなものです。明日の朝日新聞に出ますかね、「昨日の講演会、『浅沼ご家族とともに』は、沖縄から戻った宮村武夫牧師による、さすがなお話」と。明日の新聞が報じますか、一面とは言わないまでも、何面かに出ますかね。出ても私は驚かない、いや出て当然だと思います。しかし向こうが当然だと思わない、残念ながら。
 しかし私たちがやっている小さな営みは、公(おおやけ)のことです。今日の集会は、見たところは小さいけれども、背後にある計画は大きいのです。
どんな風に大きいか、一つの側面はこんな点です。私は浅沼さんの証・『私の精神史』を読みながら一つ強く感じたのは、浅沼さんの専門であるロシア語のことです。
 私は今、日本センド派遣会の総主事です。その関係で、5年前キエフ神学校で講義する話が進んでいたのです。ウクライナキエフ神学校は、とても重要な神学校です。そこで、日本で長年散々苦労して働いてきた、リーズナー先生などセンドの宣教師方がしばしば授業を担当する機会があり、私のことも先方に伝えてくださったのです。
その結果、二週間の予定でガラテヤ書の集中講義を持つ目標で連絡が交わされたのです。
 ところが、予定していた時のため最終準備する前後から、私が鬱状態になり、結果として話が駄目になってしまったのです。
私の生涯に幾つか、「できなかったなあ」、「できてないなあ」と挫折があります。
そうした中でも、あのウクライナキエフ神学校でガラテヤ書集中講義を実行できなかったことは、特別に残念で忘れることが出来ません。
ここからは、ささやかな祈りです。主が良しと許してしてくださるなら、あのときガラテヤ書から話しておきたかったことを、浅沼兄の協力を得てロシア語に翻訳しで出版することが出来たら。
それが許されるならば、聖書を日本でどのように読んでいるか伝えることができます。それは、日本において主なる神がどのような恵みを注いで下さっているかを伝えるのに通じます。
 ですから『浅沼ご家族とともに』は、今日の集会で終わりではないのです。主がこれから、私たちを通して何をなしてくださるのか待ち望むのです。いろんなことをしてきた私たちが、主が許してくださるなら、いつの日かガラテヤ書注解のロシア語翻訳本を発行したいのです。それは、広がりが持つセンド国際宣教団の働き全体の中で、それなりに用いられると期待できます。主が浅沼家族との出会いの機会を与え、今日、この集いに参加させて下さっています。

「はじめは小さく、計画は大きく」です。―『浅沼ご家族とともに』−私たちとともなる被爆者キリスト−。「ともに」を、それぞれの立場で大切にしたいのです。「親子がともに」「夫婦がともに」、そして「Aさん家族とBさん家族とともに」、はじめは小さく、しかし大きく広がり、豊かに導かれて行くのです。
 月曜聖書研究会が、小さな集まりを重ねて来られました。続けてきて下さったそのことのゆえに今日の集会があります。これからも主がどういうことを成して下さるか期待を持って待ち望みます。
本日は長い時間、お付き合いをありがとうございました。
一言お祈りをさせていただきます。

(お祈り)
 父なる神さま、浅沼ご家族とともなる歩みは短いように見えます。けども、それぞれがその短い期間に出会い、また、歩みを別々の所でなしてきた背後にどんな過去の積み重ねがあるかを覚えます。そして「ともに」の背後に、その根底に、いつも「被爆者キリストが私たちとともに」の事実・十字架の事実を覚え感謝します。
この「ともに」は実に波紋のように広がり行く。小さな存在である私たち一人一人、いろいろな制約を担っている私たちそれぞれが「存在の喜び」の一つの喜びの顕れとして「この方とともに」、「この家族とともに」と、何と多くの可能性に満ちているのでしょうか。主が私たちに対するご期待は何と多様で大きな広がりを持っているのでしょうか。
 どうか私たちが「ともに」生きるその責任を忠実に果たし、特権を活用し続けることが出来るように、聖霊ご自身の豊かな導きを与え続て下さい。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。   アーメン
                     (文責 鮫島ひふみ)