日本語聖書翻訳を用いる私たちの責任

日本語翻訳聖書を用いる私たちの責任
 
 日本語聖書翻訳は何のためにするのか。
原語を翻訳に従事する者のためでないことは明らかです。原典を十分に理解できない、日本語翻訳に頼る人々が、神の言葉である聖書を心と生活と生涯においてしっかり受け止め生き、死ぬためです。
 その本来の目的から目を離さず、尊い業に従事するのは、聖書翻訳訳者の義務、義なる務めです。
 他方翻訳聖書を用いる私たちの責任については、「一寸の虫にも五分の魂」。
どんな翻訳も完璧な訳などない、ですから、日本語翻訳聖書を用いる説教者各自が、それぞれの分に応じて、身近な諸日本語訳を比較しながら、聖書を味わって行く、地味な喜びを心に満たす営みが不可欠。
 
以前新改訳第3版をあたかも絶対視するかの印象を与える、日本福音キリスト教会連合のある方々の言動やいのちのことば社の取扱い方に違和感を覚え、それなりに発言し、手紙を書いたりしてきました。ました。
 今、さらに新しい聖書翻訳が進められていると聞きます。
要は、榊原康夫先生が牧会者・説教者として、身をもって示された、翻訳聖書の活用のための地味な積み重ねを、小学校で国を教えて下さった恩師への深い感謝に満たされ、各自がone of themeとしての喜びに満たされて続けて行くことこそ大切と確信します。
 その意味で、小海キリスト教会の水草先生が、日本語翻訳聖書比較の営みをフェイスブックを通して公表してくれていること,とてもうれしいです。
各地で、同時多発的に、どこでも、誰でもできる営みを始め、継続する方々が起こされますように。同時多発こそ、革命の道のり、リバイバルの道筋。