沖縄で聖書を読み、聖書で沖縄をよむ その7

沖縄25年の期間、依頼原稿を書くことは、沖縄と本土の二つの点を中心に楕円形的に視野を広めて行くため有効でした。
 CLCの依頼で、雑誌のコラム「流れのほとり」に書いたものも、その一つでした。それなりに精魂を込め、楽しんでもいたのですが、躁鬱の状態がひどくなり、1年の予定で中断しなければならあなくなり、迷惑をかけてしまいました。

流れのほとり

○「初め」と「終わり」
沖縄の一月の楽しみの一つ、それはさとうきびの穂の美しいうねりです。銀の波、銀波との呼び方も印象的です。

一月、年の「初め」です。「初めに、神が天と地を創造した」(創世記1:1)。この聖書冒頭の宣言に心を傾けつつ、1993年の歩みを踏み出す幸いを覚えます。一月一日を「初め」とし、出発点としてそこに土台を置き、一年を歩み抜こうと頑張るわけではないのです。もしそうであれば、新しい覚悟で迎えた新年も、何日か過ぎ、週を重ねるうちに、一月一日に実感したはずの新鮮さは、やがて日常生活のくり返しに吸い込まれてしまいます。

聖書の指し示す「初め」、それは「終わり」と堅く結ばれています。初めから終わりへのはっきりした方向を持つ、すがすがしい一直線です。

「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」(黙示録22:13)と、万物の歴史全体を支え責任を持ちたもうお方、私を母の胎内からにない、しらがになっても背負うと約束されるお方(イザヤ46:3〜4)。このお方こそ真の「初め」です。すべてがこのお方へ向けての進展です。その途中がいかに矛盾と混乱に満ちているように見えても、単なる偶然でもなければ全くの無秩序でもない。長い長いトンネルの中に入り込んでしまい、外の景色が私の目に何一つ見えない時でも、私を抱き、「初め」から「終わり」へ進む神の恵みの列車は、ひたすら進むのです。

「初め」と「終わり」とから、その途中のすべてを見、理解するよう励まされています。小さな私の生涯の、「初め」と「終わり」の両方を見据えて歩みを積み重ねていきましょう。

「初め」と「終わり」、一月一日と十二月三十一日の両方をしっかり見つめ、1993年の一日一日を、一直線に進む恵みの日々のかけがえのない一日として。先達が明言しておられるように、この一日こそ一生として。