受肉の恵み―人間・からだのクリスマスー

受肉の恵み―人間・からだのクリスマスー

2014年のクリスマスを迎える中で、ヨハネ1章14節を特に思い巡らしています。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」(ヨハネ1:14)

まさに、真の神が真の人となられ世に来られた事実を明らかにし、それと共に、その目的を福音書記者ヨハネは明示しています。特に2つの点に焦点を絞り、この時代、インターネットを通して結ばれている私たちに対しての語り掛けに耳を傾けたいのです。

(1)日本語聖書翻訳の比較を通して聖書の味わいを、今、ここでも

「ことばは人となって」(新改訳)
「言(ことば)は肉となって」(新共同訳)
「み言葉は人間になり」(フランシスコ会
「ことばは肉となって」(前田訳)

ヨハネ1章1〜5節における、ロゴス・ことばの神性と御業の宣言に基づき、肉・からだとなった「受肉」の事実をヨハネは明言しています。そうです、前者に見る、主イエスご自身の存在の尊厳(神性)と後者における卑賤(人性)を鮮やかに対比させながら、詩的に描き宣言しています。

文字通りには「肉」、意味を重視して「人・人間」と意訳されている言葉は、死すべき存在としての人間を軽蔑した言い回し(詩篇78:39)で、私たちは、あえて「からだ」との日本語表現を訳語として用いたいのです。

真の神が「からだ」をとられ、「真の人・からだ」となられた根源的出来事・事実のゆえに、私たちのからだは、神ご自身と人、人と人、人と被造物全体を結ぶ絆として役割を果たすことが許されています。

① からだ、神ご自身と人を結ぶ接点

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられる」(Ⅰコリント3章16節)

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい」(Ⅰコリント6章20節)

② からだ、人と人を結ぶ接点

「牢につながれている人々を、自分も牢にいる気持ちで思いやり、また、自分も肉体を持っているのですから、苦しめられている人々を思いやりなさい」(ヘブル13章3節)

「自分も一緒にとらわれているつもりで、牢にとらわれている人たちを思いやり、また、自分も体(からだ)を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい」(新共同訳、ヘブライ13章3節)

③ 人と被造物全体を結ぶ接点

「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」(ローマ8章22、23節)

(2)「私たちはこの方の栄光を見た」

「私たち」は、勿論福音書記者やその仲間たち、つまり、ヨハネやペテロたち。

さらに、「私たち」に、最初にヨハネ福音書を読む読者たちを含む事実は、福音書記者ヨハネ福音書執筆の目的・動機からも明らかです。

「この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」(ヨハネ20章30、31節)

さらに「私たち」に、いつの時代の、どの場所の人々でも、福音書、そうです、聖霊ご自身の導きのうちに聖書を読み、イエスをキリストと告白する人々を含む事実も、福音書記者たちの未来に大きく開かれている視野から明らかです。

「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28章20節)

この時代、聖書とインターネットを通して結ばれている私たちも、「私たち」に含まれ、「この方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた」、まったくその通りです、アーメン。