小なりと言えども、自己理解

小なりと言えども、自己理解
  
  すでに4月からの年度前半、論考を執筆してくさる方々が着実に増加している傾向は見えており、今もその傾向は続いています。
  しかし10月からの年度後半に入って、フルタイムの記者を中心に、記事の書き手の新規加入が重なり、記事の数ばかりでなく内容の多彩さが目立ってきました。

  このような事態の中で、小紙なりに自己理解をいかに確立するか、新たな課題に直面しています。
 1. 何を、小紙はできないか、
 1. 何は、小紙でもできるか、
 1. 何は小紙にしかできないか。この一つ一つと相互の関係を思い巡らしながら、神の恵みの中でクリスチャントゥデイに与えられた立場を喜び感謝し、分を果たし続け得るようにスタッフ一同心を合わせ祈ります。

  実は、ここで提示した慎みの神学は、1986年4月以降、クリスチャン新聞のコラム「季節の窓」に書いた、以下の文・「臆病の霊ではなく慎みの霊」
と一貫した。またそれなりに展開した、聖書をメガネにの営みの有り方です。

「クラスの皆様。いよいよですよね。クリスチャン・カレッジ3年の学びを終え卒業。多くの方々が専攻科に進まれ、さらに一年今までと同じ学びの生活が続くとはいっても、やはり一つの大切な区切りです。特に、文字通りここで卒業、社会の第一線に出て行く方々にとっては、生涯においてもそれほど度々は経験しないような大きな節目を迎えるわけですから。

3年前、S先生とともに皆様のクラス担任の一人として歩み始めることが許され感謝でした。昨年4月私共が沖縄に移り、それまでのように普段の生活を含む親しい学びの生活を続けられなくなりましたが、距離の隔たりを越え、主イエス・キリストにある兄弟姉妹・僕(しもべ)仲間としての意識を持ち歩みを継続し得、幸いでした。皆様の卒業後、距離の隔たりばかりでなく、さらに多くの隔たりが私たちそれぞれの間に生じるでしょう。そうした隔たりを越えて、なお継続する主イエス・キリストにある友情を、この一年先取りして垣間見たと言えないでしょうか。

今この時、皆様に記念としてお送りしたい聖書の言葉があります。それは、テモテへの手紙第2、1章7節です。

「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です」

格別考えさせられるのは、慎みの霊についてです。聖書の教える慎み。これは、聖書が明示する全体と個の生きた関係に深く根差すようです。神の恵みにより、共同体全体に支えられ生かされている私。この私のような者が、共同体全体のために生きることを許されている。驚くべき恵みです。この恵みの中に生かされているかたじけなさ、そこから滲み出て来る思い、それが慎みです。

慎みは、具体的には、私が自分をどのように理解するかを通して表されるのでしょう。自分をどのように理解するかの課題。そうです。前に皆様に書いたことを思い起こすのです。
1. 何を、私は出来ないか。
1. 何は、私でも出来るか。
1. 何は、私にしか出来ないか。
この一つ一つについて考え、それぞれの関係を思い巡らしながら、神の恵みの中に共同体に支えられ、共同体のために生きることを許されている私の存在、立場を喜び感謝し、分を果たし得るように祈るのです。

ところが私は時の流れの中に生かされているのですから、私は次の問いに直面します。
1. 何を、今出来ないか。
1. 何は、今でも出来るか。
1. 何は、今しか出来ないか。
10年前、いや5年前出来ても、今は出来ないこと。それは、何かを正直に認める。5年後、10年後には出来ても、今は出来ない事を正しく見抜く。

10年前とは違い、5年後とは違う今。しかし、今の環境でも今の私にでも出来ることは、何か。一切の言い訳から解放されて、今ここで、それをなす。

5年前には出来なかった。10年後にも出来ない、今この時しか出来ないこと、それは何か。それに集中する。

クラスの皆様。神が私たちに与えてくださったのは、慎みの霊。力と愛から切り離すことの出来ない慎み、神の与えてくださった力と愛によってのみ可能な慎みです。

そしてパウロが、「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく」とわざわざ断っている事実を注目したいのです。テモテが、また私たちがおくびょうになる可能性、心配がなければ、「おくびょうの霊ではなく」と念を押す必要はない。おくびょうになる危険性があるから、いやすでにそうだから、「おくびょうの霊ではなく」とパウロは力を込めて語っているのではないでしょうか。

おくびょうからの解き放ちの道、慎みの道を歩まれる皆様。一人ひとりの4月からの歩みの上に豊かな祝福がありますように。」