「からだのよみがえり」                          Ⅰコリント15章50−58節      

「からだのよみがえり」
      Ⅰコリント15章50−58節

[1] 序
 今年のイースターは、4月20日
確かに例年のように今年もイースターです、しかし同じイースターでも、2013年でも、2015年でもなく、まさに2014年のイースター。天地の創造から新天新地までの全歴史を通じてただ一度限りの2014年のイースターは、当然、私たちの生涯でただ一度の機会です。
 この一度限りの機会に、聖書の復活・よみがえりの記事において、からだに焦点を合わせが強調している事実に注目したいのです。
 まず主イエスの復活・よみがえりについて、続いて私たちの復活・よみがえりの場合について確認します。

[2] 主イエスにおけるからだの復活
(1) からだの死
主イエスがカルバリの十字架へ向かう途上から死そのものに至る聖書の証言において、一貫して「からだ」焦点が合わされています。
「…イエスをむち打って後、…イエスの頭をたたいたり」(マルコ15章15、19節)した上で、「イエスを十字架につけた」(マルコ15章24節)と記されています、つまりローマの兵士たちは主イエスのからだを十字架につけたのです。
 さらに十字架で「息を引き取られた」(マルコ15章39節)、「イエスのからだの下げ渡し」(マルコ15章43節)をヨセフは願い、ピラトは「イエスのからだをヨセフに与えた」(マルコ15章45節)と繰り返し強調しています。
 ヨセフは、主イエスのからだを十字架から取り降ろし亜麻布に包み、そのからだを、岩を掘って造った墓に納めたのです(マルコ15章46節)。
 ですから「あの方はよみがえられました」(マルコ16書6節)と宣言されるとき、それは「イエスのからだはなかった」(ルカ23章3節)と空の墓の事実を通して、まさに主イエスのからだのよみがりなのです。
 
(2) からだのよりがえり
主イエスのからだのよりがえりの聖書証言の典型として、ルカ24章36−43節があります。
「・・・すると、イエスは言われた。『・・・わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。・・・』・・・イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。」(ルカ24章38−43)、何かバリバリと音が聞こえる感じです。 

(3) 見ずして、ことばを通して
確かに「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい」(ヨハネ20章27節)と、主イエスが具体的に語られるように、主イエスの復活はあくまでからだのよみがえりです。
 しかし、主イエスのからだの復活の信仰は、目撃に根差しながら、目撃を越えて、「見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネ20章28節)とあるように、記録された聖書のことばや宣べ伝えられる福音宣教のことばを通して現実となる恵みの事実が明示されています(Ⅰペテロ1章8節)。

[3] 私たちにおけるからだの復活
(1) からだのよみがえりの約束
 主イエスのよりがえりに焦点が合わされていると共に、私たちの場合もからだのよみがえりが約束されています。
「 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。
終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(Ⅰコリント15章51,52節)。
私たちのからだは、死により灰となり煙りとなり消滅する、確かにそのように見えます。しかし、それがすべてではないのです。「変えられる」とよもがえりの約束が与えられています。

(2)うめきの中で
 灰と煙りが私たちのからだの最終的現実と見える中で、よみがえりの希望に生かされる私たち。その私たちの姿を、「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています」(ローマ8章22節)と被造物全体のうめきと重ねて、「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます」(ローマ8章23節)と心の中でうめきを聖書は深く描きます
 そうです。被造物全体のうめきとからだのよみがえりをまち望むうめきが重なるのです。ですから、からだを軽視し、からだのよみがえりを無視するなら、被造物全体のうめきを理解できないのです。うめかなければならないうめきをうめけないのです。
うめいてはいけないことうめけば、問題です、うめいてはいけない。うめく必要のないことをうめけば、やはり問題です、うめく必要はないのです。
しかし最も深刻な事態は、被造物全体のうめきと重ねた心の中のうめききを、真には知らないことでないか。

[4] 集中と展開
2014年イースター、からだのよみがえりの宣言に応答、健全なうめきを知る者として整えられ、日々、「自分のからだをもって、神の栄光を現し」続ける営みをなさして頂きたい。からだこそ、私たちの存在そのものです。やがて主イエスの再臨において、このからだが変えられ、主イエスに似るものとされる希望(Ⅰヨハネ3章2節)。この希望に満たされ忍耐の道(ローマ8章25節)を歩みのです。与えられた立場、持ち場に踏み留まり続ける勇敢な生活と死の道を(ヨハネ16章33節)。