『先立ち行く主イエスに従い進む』−マルコの福音書講解説教ーその31

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

『生きている者の神』
マルコ12:18-27

[1]序
(1)今朝、私たちは、先週と同じ様に、主日礼拝に出席しています。
しかし去った1週間の経験を積み、先週の主日礼拝における自分から見てそれなりに成長した者とされて、私たちはこの場に出席しているのです。私たちは経験のすべてを意識することはできなくとも、幾つかのことを指摘できます。
たとえば、私について言えば、すぐに幾つかのことを思い出します。まず金城力(リッキー)が、宮古首里福音教会のホームページを見ていると聞き、深い励ましを受けたこと。また丸山軍司先生の入院の報を聞き、木曜聖研・祈祷会で共に祈る時を持ちました。
さらに12月12日(金)には、日帰りの出張で、センド国際宣教団理事会に出席、例の土地と建物について報告と相談の時を持ちました。
皆様お一人お一人、それぞれが一週間の経験を積んで、ここに出席されている、その事実の重さと尊さを覚えるのです。

(2)今朝の聖書箇所・マルコ12章18−27節、その前後関係を注意。
18節の「また」は、その前の12章13−17節との関係を示しています。つまり、「彼ら」(13節、11章27節の祭司長、律法学者と長老たちを指す)が、パリサイ人とヘロデ党数人を派遣し(13節)、わなに陥れようとしたと同じく、今度は、サドカイ人たちを派遣し、本来の意味では質問とは言えない質問を浴びせかけるのです。パリハイ人、ヘロデ党、サドカ人たちは、普段は意見を異にし、対立する人々です。その彼らがこぞって主イエスを詰問します。
12章18−27節と28節以下の箇所との関係は、「律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って」(28節)から、結びは明らかです。34節の「あなたは(彼らのようにではなく)神の国から遠くない」との主イエスのことばは、(彼ら)パリハイ人、ヘロデ党とサドカ人たちの質問と対比しています。

[2]サドカイ人たちの質問、 12章18−23節
(1)サドカイ人たち。
 祭司のグループで、ユダヤ教の貴族。ただモーセ五書だけを認め、復活の教え(イザヤ26章19節、ダニエル12章1−3節など)を、モーセ五書に見出せず、聖書的と言えないと考え、主張。

(2)「先生、モーセは私たちのためにこう書いています」(19節)
申命記25章5節以下。

(3)「さて」、20−23節
私が聞いている聖書朗読のテープでは、複数の人の声(18節、サドカイ人たち)で、独特の嫌みのある言い方が聞こえてきます。

[3]主イエスの答え、 24−27節
(1)サドカイ人たちの根本的問題点、24、25節、「イエスは彼らに言われた。『そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。
人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです』」。
①「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからからではありませんか」、参照「あなたがたはたいへんな思い違いをしています」(27節後半)。
直面している課題は、聖書の読み方です。聖書を正しく、深く、豊かに知り(読み)、それに従い生き、伝えて行くこと、これが課題です。

②「神の力」、単に人間の考え・思索で捉えられないのです。理屈(りくつ)まして屁理屈などの対象なのではないのです。そうです、人間の思考の限界を越える「神の力」なのです。

(2)「生きている者の神」、26、27節
①26節。
イ。前半、「死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。」
サドカイ人たちが、申命記25章5節以下に基づき復活を否定するのに対して、聖書の別の個所を引用する応答の仕方。

ロ。後半、「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。
生ける神は、アブラハムの神となり、彼に約束を与えられた(契約を結ばれた)のです。この約束は、何者・何物によっても、そうです、死によっても破棄されることなどないのです。

②27節、上記の「わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」について主イエスの解釈、「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」
復活の確かさの根拠は、人間に対する神の約束が変わることがない、つまり神のご真実なのです。
この事実をアブラハムとの関係で、パウロは、「このことは、彼(アブラハム)が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです」と証言しています。そしてこの恵みの事実は、「また私たちのためです」(ローマ4章24節)。

[4]結び
(1)聖書のことばをめぐる、「思い違い」。
モーセは私たちのためにこう書いています」(19節)だけでは、不十分。ある場合には、危険ですらあると教えられます。形式的には、聖書のことばを自分たちのために引用しながら、「思い違い」(24節)、それも「たいへんな思い違いを」(27節)する可能性があるのですから。
ただ一つの希望は、主イエスご自身の聖書解釈です。今朝の個所のように新約聖書に見る実例。さらに新約聖書に見る旧約聖書の引用と解釈の全体。
以上の土台に立ち、聖霊ご自身が、説教者・宣教者を導いて聖書のことばを、今、ここで説き明かす助けをしてくださるとの信仰、そのための会衆全体の祈りは、来年4月に新しい牧師を迎えるに当たり、欠けてはならい備えです。

(2)復活の課題は、何と言っても主イエスご自身の復活の事実により確証されるのです。3月末までマルコを読み進め、主イエスの十字架と復活がしっかり心に刻みつけられ、使徒信條の「三日目に死人のうちよりよみがえり」、また「身体(からだ)

(3)「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」を、「天にまします、我らの父よ」と祈ることが許されている、まさに驚くばかりの恵みです、参照ローマ8章15節、「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます」。ガラテヤ4章5、6節、「これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました」。
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、キリスト者の神は、愛と慰めの神である」(パスカル、『パンセ』 556)。

「 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があります。 」(Ⅰヨハネ4章9、10節)