『先立ち行く主イエスに従い進む』−マルコの福音書講解説教ーその30

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

『神のものは神に』
マルコ12:13−17


[1]序
(1)今朝の主日は、幾つかの側面をもっています。
まずアドヴェントの第2週の主日礼拝です。ローソクが二本灯っています。 
また今朝は、12月の最初の主日礼拝で、先週の『首里福音』880号で展望したように、12月4回の主日礼拝でもマルコの福音書を読み進めます。
そして12月31日の越年礼拝についても確認しました。このような12月4回の主日の一番バッター、そうです、最初の主日礼拝です。
さらに先週は、丸山先生が当教会で宣教を担当してくださいました。大きな恵みです。普段とは違う切り口から聖書がいかに豊かなものであるか明らかにされ、そのように受け止められる事実、嬉しいです。
あの日、私はとしてば、千葉県市川市の大竹兄姉宅で持たれた、聖望キリスト教会の主日礼拝で宣教を担当しました。まえにも申し上げているように、大竹兄は、私の中学一年のときの同級生、クラス・メイトです。家庭集会は、23年目、そして主日礼拝も8年目に入りました。主日礼拝と昼食の交わりの後、聖書の味わい。今年は、詩篇119篇を味読しています。このような先週の主日礼拝を、皆様にとっても、私にとっても特別なレストランでの外食であるとするなら、今朝は、落ち着いた家庭料理。
このような幾つもの側面を持つ、主日礼拝の豊かさは、何も今週に限ったことではありまん。来週についても、首里福音教会の群れ全体にとって、どのような特別な意味があるか探りながら、主日礼拝に出席したらいかがでしょうか。群れ全体についてだけではありません。一人一人が私にとって、この主日礼拝は、どのような特別な意味があるか思い巡らすのです。
私にとってだけでなく、主日礼拝に参加する他の一人一人にとっても、それぞれに特別な意味があり、先週の主日礼拝、来週の主日礼拝と一貫した恵みの流れにあると同時に、先週と来週とも違う、私の生涯でただ一回、いや主なる神様の恵みの歴史にとっても、ただ一回の主日礼拝だ。そんな思いで、主日礼拝に馳せ参じる。このことを毎週重ねたら、主日礼拝の豊かさを、私たちなりにますます味わい知るようになる、それは確かです。

(2)すこし長くなりました。今日の聖書の箇所、特に17節の「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」に焦点を合わせ、味わいます。
その備えてとして、二つの点に注意したいのです。 第一には、今日の聖書箇所の流れ・大筋と第二に前後関係を注意したいのです。
イ聖書箇所の流れ・大筋。
イ。「彼らは」(13節)、誰か。12章1節や12節の「彼ら」と同じく、11章27節の「祭司長、律法学者、長老たち」を指し、パリサイ人やヘロデ党の数人は、彼らから送られたのです。
誰が本来の敵対者であり(参照8章31節、14章1節、15章1節)、誰がその手先に過ぎないか、見分ける必要。

ロ。「パリサイ人とヘロデ党」は、民族の伝統に忠実であろうとする立場とローマの勢力に協力する立場の違いで、互いに敵対関係にある人々でした。しかし主イエスに対する攻撃においては、手を結ぶのです。
彼らは、教師に学ぶ生徒の振りをして行き主イエスのもとに質問する動機・意図は、「イエスに何か言わせて、わなに陥れよう」と悪意に満ちたもので、敵対者による鋭い攻撃です。
ですから「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。」(14節)と一見ほめ言葉に思えるものが、皮肉か心にもないものであるのは、もちろんです。
同様に、「カイザルにい税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょう、納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか」(14節)も、巧妙な「わな」なのです。
なぜなら税を納めると答えるなら、熱心党の主張に同調的な民衆の支持を得られなくなり、反対に税を納めることに否定的であれば、そくローマ官憲から反逆者とのレッテルを張られることになります。
しかし主イエス、「彼らの偽装を見抜いて」(15節)、17節、「「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」に見る宣言をもって、彼らの魂胆(こんたん)を打ち破られ、彼らは、「驚嘆」(17節)するしかなかったのです。

②前後関係
11章27節から12章12節を通観して、主イエスの「権威」が中心課題になっている事実を見てきました。11章28、29、33節で、「何の権威」によるかが繰り返し焦点となっていました。
また12章1−12節のたとえで、主イエスがご自身を、父なる神の「愛する息子」(6節)と自認し、主張している事実がここで効果を現します。
この「権威」をめぐる激突こそ、主イエスを十字架へと駆り立てたものです。主イエスの権威にいては、マタイ28章18-20節 が大切な基盤です。
当時の時代背景である、ローマ皇帝の神格化・権威との切り結びで受け取る必要があります。また私たちにとっては、明治維新以降の天皇制、天皇の権威、特に1930年代以降のそれとの関係で受け止める必要があります。

[2]「カイザルのものはカイザルに返しなさい。」
(1)パリサイ人たちは、理論上、また熱心党は実際にローマの支配を認めず、税を納めることを否定していたのです。この熱心党の主張が人々を動かし、66-73年のユダヤ戦争へと引き込み、エルサレムは70年滅亡するのです。
(2)熱心党やパリサイ人たちのスローガンは勇ましいけれども、現実として、ローマの支配を、主イエスはデナリ銀貨を通し明らかにします。
カイザル・ローマ皇帝。当時のローマ皇帝ティベリウス。デナリ銀貨には、彼の肖像と共に、「崇拝すべき神の崇拝すべき子、皇帝ティベリウス」と刻まれていたのです。

[3]「そして神のものは神に返しなさい。」
(1)ここで「そして」と訳されていることばは、「しかし」と訳した方が、全体の流れが明らかになります。
カイザルの権威は、好きでも嫌いでも、現実として存在するのです。存在そのものは、認めなければならないのです。
しかし、それは生ける神の権威の下にある一部に過ぎないのです。ローマ皇帝の権威は、決して無制約ではないのです。カイザル・皇帝の上に、主なる神のご統治があるのです。

(2)ローマ皇帝に結び付けられている、礼拝を求める栄光要求を、真にふさわしい唯一のお方に返す、主イエスは明言。

(3)こうして、主イエスローマ皇帝の神格化を打ち破られるのです。

[4]結び
(1)カイザルのものと神のものについて。
 この両者の関係について、私たちの間での理解を確認したいのです。カイザルのものを政治権力・国家を指し、神のものが宗教・教会を指すと見る場合が少なくありません。そして三つの異なる立場の主張がなされて来ました。
② 政治権力・国家が宗教・教会を統治とする考え。

②宗教・教会が政治権力・国家を統治。

政教分離

↓ 政治権力・国家
私たちの理解、 神 のもとに、
宗教・教会
政教の分離だけでなく、それぞれが、主なる神から与えられた恵みと責任。

◆領域主権の教えと実践
万物の創造者なる神の統治のもとに、国家、教会などらゆるものがそれぞれの領域が役割、責任そして尊さを与えられている。一つの領域が他の領域を支配したり、隷属させることは許されないのです。

(2)首里福音教会の現在と将来において。
首里福音教会においての医療、福祉従事者、自営業に従事する兄姉のための執り成しの祈り。

②教会と大学
万物、宇宙・ユニバーサルのあらゆる分野を研究する大学・ユニバーシティーが万物の創造者の説明書・聖書を軽視、無視しないように。そのための教会の役割の自覚と祈り。

地方議会議員、国会議員のために、また「・・・に」

(3)三冊の本からの光り(詩篇119篇105節)、先達たちの足跡
先週の主日礼拝では、時間の制約のためできなかった、三冊の本の紹介をいたします。
☆浅見仙作、『小十字架 戦時下一キリスト者の証言』 待晨堂 1968年
 札幌の無教会指導者。反戦平和思想、キリスト再臨の教義が国体に接触、神社神宮の礼拝拒否などが治安維持法違反として追訴(1943年)から、大審院での無罪判決(1945年)までの経過。
 
☆車田秋次全集第6巻 日記Ⅱ(日記、車田秋次被告予審調書) いのちのことば社 1985年
日本ホーリネス教団の指導者車田先生の全集の一冊。千代崎秀雄先生の行き届いた、「はじめに」と「解説」が実に有益な手引き。 
 
☆渡部良三、歌集『小さき抵抗』 シャローム図書 1994年 
山形出身の無教会キリスト者。父上渡部弥一郎から受け継ぐ反戦の思想を中国の戦線でも貫こうとした壮烈な戦いの中での数々の歌。
「生きのびよ獣ならずに生きて帰れこの醜きこと言い伝うべく」

以上の三冊を紹介しようしていたとき、下記の興味深い本を、沖縄キリスト教書店で最近見つけ、購入しました。
宮田光雄、『権威と服従-近代日本におけるローマ書十三章-』 新教出版社 2003年
「近代日本におけるその(ローマ書十三章)受容の跡を丹念に辿り、天皇制国家とキリスト教信仰との緊張、とりわけ太平洋戦争下の協力と抵抗の諸相を克明に描き出す。聖書解釈史による異色の思想史論。」と紹介されているものです。
主のぶどう園(祈りの課題)の一番目の課題が内実を持つものとして、首里福音教会において祈り続けて行くために、上記の書物が取り扱う分野の地味な学びが求められます。

「 神は仰せられた。『ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。また仰せられた。『わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。主は仰せられた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みをしっている。 」(出エジプト3章5-7節)