『先立ち行く主イエスに従い進む』−マルコの福音書講解説教ーその17

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

『まだ悟らないのですが』 マルコ8:1-21

[1]序
(1)先週持たれた夏の伊江島中高キャンプまた石垣・西表コース、台風10号の接近、さらにその最中に、場所の変更などで対処し進めることが出来ました(臨機応変)。
伊江島キャンプは、村役場の職員の連絡で、フェリー欠航前に伊江島を後にして、後半のプログラムは首里福音教会で。
また石垣・西表コースは、7日(木)は航空便欠航のため、一行6名は首里福音教会で一泊した後、8日(金)と9日(土)だけの短縮した形になりました。
こうした中、7日(木)早朝6時、宇堅福音教会牧師館が台風のため少なくない被害を受けました。牧師館はシロアリの害がひどく、応急処置は取られていたのですが、台風の強さに耐えられなかったのです。
明日、臨時の沖縄地区牧師会を宇堅福音教会で開きます。宇堅福音教会の意向に沿い、沖縄地区、また日本福音キリスト教会連合全体としても支援がなされて行くよう期待します。
首里福音教会としても地区の姉妹教会と協力し、私たちなりに分を果たしたいのです。

(2)今朝の箇所全体の流れや特徴を知るため、1節の「また」、13節の「また」、さらに21節の「まだ悟らないのですか」に注意を払います。
これらの短いけれど大切なことばは、18−20節が指し示すのと同じく、五千人に食事を与える記事(6章34−44節)との関係を指摘しています。
 
このように二つの食物を与える記事が登場するだけでなく、6章31節から8章31節では、以下に見るように、二つの同じような出来事の連続が繰り替えされていると判断できます。
①群衆の養い   6章31-44節 8章1-9節 8章1節、「また」

②湖の渡り 6章45-56節 8章10節

③パリサイ人たちと衝突 7章1-23節 8章11-13節 8章13節、「また」

④パンをめぐる会話 7章24-30節 8章14-21節 五千人、四千人の 群衆
⑤いやし 7章31-36節 8章22-26節

信仰告白 7章37節 8章27-30節
6章31節からの結びとして7章37節が頂点に位置し、強調されています。
同様に8章1節からだけでなく、さらに6章31節からの全体的な結びとして、8章27−30節が大切な役割を担います。
このキリスト信仰こそ、彼の福音書を読む各自において現実となるようマルコが祈り労している目標なのです。

[2]四千人に食物を与える、 8章1−10節
6章34−44節と8章1-10節の記事の間には似ている点・類似があるのは、主イエスが弟子たちを通して群衆に食事を与える大筋において明白です。
しかし似ている点・類似と共に、違う点・区別の注意するが大切です。
(1) たとえば6章34節では、「多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ」と、適切な霊的指導を受けていない群衆の実情が表面に出ていました。それに対して8章2節では、「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べるものを持っていないのです」と、霊的な糧は十分与えられていても、それでこと足れりとなさらない主イエスのご配慮を教えられます。
3節では主イエスの心くばりは、なお一層具体的です。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6章33節)との約束の成就を見る思いがします。

(2)3節の「家に帰らせる」は、9節の「解散する」と同じ言葉です。確かに6章36節の場合のように、「みんなを解散させてください」と、弟子たちはここでは露骨(ろこつ)に提案していません。しかし4節に見る弟子たちの言葉は、主イエスの思いやり深いことばとはあまりにも違います。表面は「できましょう(か)」(4節)と不可能であると言っています。しかしその実、彼らは「やる気がない」と見てよいでしょう。「できない」と「やる気がない」は、従兄弟のようなものです。

(3)主イエスは、ないものではなく、そのような中にあっても、なお「ある」ものに焦点を合わせています。どれだけあるかが問題ではなく、「ある」ことが大切なのです。7節の「魚が少しばかりあったので」は、その少なさを強調した言い方です。どんなに少なくとも「ある」ことが肝心(かんじん)。
空腹のまま解散させない主イエス。その主イエスは今礼拝に座している私たちを空手で帰らせなさらいのです。一週間の必要が満たされて各自が教会を後にするように祈ります。

[3]「しるし」と「パン種」、」 8章11-21節
(1)今の時代は「しるしを求める」、11-13節
パリサイ人たちが主イエスのもとに来て、「議論をしかけ」、彼らの物差しで、主イエスを測ろうとするのです。
しかし彼らこそ、主イエスの物差しで測られるべき者であり、またマルコの福音書を現に読む者がまさにそうであると教えています。

(2)パリシイ人とヘロデのパン種、14−21節
①「余りのパン切れを七つのかごに拾い集め」(8節)てあったのに、「ただ一つ」(14節)のパンだけしか弟子たちは持って来ていなかったのです。誰が何のためにそうしたのか知る由もありません。
しかし、「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種に十分気をつけなさい」との主イエスのことばに対して、「そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた」とあります。議論と言っても互いに責任をなすり合いをしている様を示唆(しさ)しています。

②そうした弟子たちに対して、主イエスの言葉を重ね(17、18節)、最大限に強調し指摘なさいます。
イ 「なぜ、パンがないといって議論しているのか」、16節に基づく指摘。
ロ 「まだわからないのですか」、7章18節で、すでに弟子たちに対して。
ハ 「悟らないのですか」、この部分の結び21節で繰り返し強調、中心。
ニ 「心が堅く閉じているのですか」、心の状態→以下目、耳、記憶に影響。
ホ 「目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえない」
ニ 「あなたがた、覚えていないのですか」
 ニについては、19節では、6章41−44節の記事、20節では、8章6-9節の記事についての言及で取り上げています。弟子たちの、「十二です」(19節)、「七つです」(20節)との答えは、表面的には、確かに正しいのです。しかしその実、「まだ悟らないのですか」と、主イエスの鋭い指摘を受けねばならないのです。

[4]結び
「まだ悟れないのですか」、この部分の中心。
弟子たちそしてマルコの福音書を読む者の問題、課題です。参照マタイ16章12節、「彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人たちの教えのことであることを悟った」。
「悟る」の新約聖書の用法とイザヤ6章9、10節と52章15節
新約聖書において、「悟る」ということばが使われている場合、「悟らない」と打ち消し・否定を強調する例が少なくない。
その中でも、預言者イザヤの召し出しの記述の中から、イザヤ6章9、10節の引用をしている例が特別注意を引きます。
マタイ13章14,15節
マルコ4章9、12節
ルカ8章10節
使徒28章26、27節

なお悟ることのない弟子の姿について、ルカ18章34節、「しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。」を参照。
預言者イザヤはその召命のときから、御言葉を聞く民が心を閉ざすことを覚悟して遣わされたのです。
同様に、主イエスの宣教に対してさえ、なお人々、いや弟子たちさえ心を閉ざす現実が生じているのです。
なぜそうなるか理由を上げ説明するのは困難です。しかし事実そうなのです。

②肯定的、積極的な意味で
しかし悟らない事実がすべてではない。悟る恵みの明示を見ます。
マタイ13章23節、「ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」
ルカ24章45節、「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」。
そしてロ−マ15章21節、
「それは、こう書いてあるとおりです。
  「彼のことを伝えられなかった人々が
  見るようになり、
  聞いたことのなかった人々が
  悟るようになる」。
これは同じイザヤ書からの引用ですが、イザヤ52章15節からの引用です。大いに注目すべき。

(2)聖霊ご自身の働きとみことば、その宣教による常に改革され続ける教会。その教会の誕生と成長のための伝道。道ははっきりしています。