『先立ち行く主イエスに従い進む』−マルコの福音書講解説教ーその16

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

『ツロとカリラヤ』
マルコ7:24-37

[1]序
(1)今朝は、8月第1主日の礼拝です。7、8月の夏の盛りの歩みも後半へ入ります。7月の主にある営みの中で、21日(月)の『海へ行こう』が大切であったように、8月の礼拝の生活では、明日4日(月)から6日(水)夏の伊江島中高生キャンプ、引き続く石垣・伊江島コースが一つの柱の役割を果たします。夏の間に将来に備えるのです(参照箴言6章8節、10章5節)。
8月の5回の主日礼拝では、以下のように宣教を予定しています。
8月 3日 マルコ7章24−37節 『ツロとガリラヤ』
10日 マルコ8章1−21節 『まだ悟らないのですか』
17日 マルコ8章22−30節 『では、あなたがたは』
24日 マルコ8章31−38節 『主イエスの十字架と復活』
29日 丸山軍司先生 宣教担当

(2)今朝の箇所を、24節の「ツロ」、31節の「がリラヤ」と二つの地名に注意し、前半24−30節をツロでの出来事、後半31−37節をガラテヤ湖の地域での出来事と分け、それぞれについて見て行きます。

[2]ツロで、「そうまで言うのですか」(29節) 、7章24-30節
まず7章1−21節との対比が目立ちます。そこではパリサイ人や律法学者たちが、自分たちの習慣に聴き従わない弟子たち、そして主イエスを批判する姿を見て来ました。
また18節に見る弟子たちの鈍さや頑(かたく)なさの背景の中で、24節以下でスロ・ファニキヤの女の信仰をマルコは描きます。

(1)ツロ。
異邦人の地。主イエスが村から村、町から町へ宣教の旅行を続ける中で、イスラエルの外に出られたのは、この箇所だけです。
登場人物について、「ギリシャ人で、スロ・ファニキヤの生まれ」。(26節)と、ユダヤ人の中のユダヤ人と自負するパリサイ人・律法学者ではなく、また選ばれた弟子たちでもなく、この異邦の女がとマルコは力を込めて紹介している思いが伝わります。

(2)話の筋
25節、深刻な必要を持つ女が登場、「イエスのことを聴きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した」のです。
26節、登場人物の紹介の後、「自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた」と、主イエスに願い続ける彼女の姿をマルコは再度強調し描きます。
このように、ひたすら主イエスに向かう彼女の姿が段階を踏んで浮き彫りにされています。
「イエスのことを聞き」(25節)

「その(主イエス)の足もとにひれ伏し」(25節)

「イエスに願い続けた」(26節)
彼女の行為を一つ一つ指し示した後に、主イエスと女の直接の対話をマルコは描きます。
27節、主イエス、「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくないことです」と答えられたのに対して、
28節、スロ・ファニキヤ女の答えを、「しかし、女は答えて言った。『主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の子犬でも、子どもたちのパンくずはいただきます』」と、マルコは記しています。
その結果は、
29節、主イエス、一方にでは、「そうまで言うのですか」と、主イエスは女の信仰を認めるのです。参照マタイ15章28節、「そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。『ああ、あなたの信仰はりっぱです。そのとおりになるように』」。
30節、他方、娘の悪霊からの解き放ちが、「女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊は出ていた」と告げられています。

(3)中心点
主イエスは、このスロ・ファニキヤの女のどこを、なぜ「そうまで言うのですか」(29節)と認めなさったのでしょうか。幾つかの点を見たいのです。
①その第一は、彼女が「主よ。そのとおりです」と、主イエスのことばに従い自分自身を認めている点です。自分の感情やその他の判断基準ではなく、主イエスのことばを、たとえそれが困難で受け入れるのがやさしくないように見えても、主イエスご自身に対する深い信頼の中で、異邦人としての自分の立場をわきまえています。

②その二点は、彼女が重荷を担い、その責任に耐え、そこから決して逃げだそうとせず、必要を訴え続ける信仰の歩みの着実さを見ます。

③第三は、主イエスに「願い続けた」(26節)ところに、彼女の信仰の熱心を見ます。
このように、一人の主イエスに従う忠実な女性の姿を私たちは、この箇所に見るのです。

[3]ガリラヤ湖の地域で、「この方のなさったことは、みなすばらしい」 7章31-37節
 ツロの地域で、主イエスは御業をなし給うた後、ガリラヤ湖の地域においても御業をなさいます。
(1)「そこで、その人だけを群衆の中から連れ出し」(33節)
主イエスは、群衆全体を見渡すと同時に、その一人一人に目を注いでくださいます。今まさに、人々の労を通しですが、一人の人に焦点を合わせ、御業を展開なさるのです。

(2)「天を見上げ、深く嘆息して」(34節)
「深く嘆息して」と訳されていることばは、聖霊ご自身がキリスト者・教会の中で御業を進めておられる事実を描く際に用いられています。
ローマ8章23節、「御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら」。
Ⅱコリント5章2節、「私たちはこの幕屋にあってうめき」
5章4節、「確かにこの幕屋にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。」

(3)「その人に、『エパタ』、すなわち、『開け』と言われた」。
「彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった」(35節)だけでなく、その人の存在全体が開かれたものとされたのです。
さらに、「この方のなされたことは、みなすばらしい」と人々が主イエスに対していうとき、彼らにおいても「エパタ」の恵みが現実になっています。

[4]結び
(1)地方ではなく、地域
ツロにおいて、またガリラヤ湖の地域において、主イエスの御業が行われる様を見てきました。そうです。各地域で主イエスの御業はなされるのです。
私どもは、ともすれば、中央と地方と枠で考えてしまいます。その場合の中央は、それぞれの判断によるもので、言わば自称中央です。その中央から見て地方だと言われ続けるといつの間にか、自分たちのところを中央に対する地方と見てしまいがちです。しかしツロ、ガリラヤ湖の地域とそれぞれの地域で、主の御業はなされて行きます。中央と地方の関係でなく、それぞれの地域が、主の御前で、それぞれ尊い場所で、独自の役割を委ねられています。 .

(2)直向(ひたむ)きなキリスト信仰
私たちは、今朝、スロ・ファニキヤの女性の主イエスの言葉に従いつつ、直向きに主イエスに対する歩む姿に教え励まされます。

(3)エパタ、私たちも。
私たちも、「エパタ」と心開かれる者とされる必要があります。みことばを通し主の恵みに導かれながら、一歩一歩と。
私たちの世界が、どのように混沌として見えても、本来は、「見よ。それは非常によかった」(創世記1章31節)と、創造の恵みを覚える信仰の目を開かれる必要があります。そして主イエスがこの混沌として世界において、救いの善き御業をなして続けておられる事実を認める恵みを与えられています。エパタと私たちに仰せくださる主イエスの恵みを覚え、ローマ人への手紙15章20、21節をお読みします。
「このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。それは、こう書いてあるとおりです。
『彼のことを伝えられなかった人々が
見るようになり、
聞いたことのなかった人々が
悟るようになる』」 (ローマ15章20、21節)。