『先立ち行く主イエスに従い進む』−マルコの福音書講解説教ーその9

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

『正気に返って』
マルコ5:1-20

[1]序

(1)本日礼拝後に、分会の交わりのときを持ちます。
また午後3時から、沖縄地区宣教大会を石川福音教会で開きます。『JECAフォーラム』沖縄特集号の取材のため来沖中の後藤先生(朝顔教会)、岩松先生(菅教会)、岸本先生(谷田部教会)も参加してくださいます。
その中で後藤先生が、長い期間に及ぶ南米宣教支援の経験を踏まえ、宣教を担当してくださいます。引き続く分科会では、0の会、日本センド派遣会、離島伝道そして南米宣教会の報告と話し合いのときを持つ予定です。

(2)今朝は、マルコの福音書5章に進みます。
4章35-41節では、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」(41節)と弟子たちのことばにあるように、風や嵐を静める主イエスの姿をマルコは描いていました。その背後には、34節までの主イエスの教えと35節以下の嵐の実地訓練・経験が「その日のこと」(35節)と堅く結ばれている事実を確認しました。
マルコの福音書5章1節からの記事では、「汚れた霊につかれた人」の解き放ち、いわば激しい嵐にもみくちゃにされている、一人の尊い人格の内と外を静める主イエスの姿を見ます。参照詩篇107篇23-31節、特に29-31節。

[2]ゲラサ人の地の、「汚れた霊につかれた人」 5章1-14節
(1)「ゲラサ人の地」
「こうして彼らは湖の向こうの地、ゲラサ人の地に着いた」(1節)。ゲラサとは、ヨルダン川の東岸約30キロ、ガリラヤ湖死海のおよそ中間に位置し、ローマの直接支配地で、異邦人の住む地。参照20節の「デカボリス」、十都市、ヘレニズム都市連合。

(2)「汚れた霊につかれた人」
マタイやルカの一節だけの描写(マタイ8章28節、ルカ8章27節)と比較し、マルコはこの人について、かなり詳しく描いています(マルコ5章2-5節)。そのマルコの描写を二つの面から注意したいのです。
①人々のこの人に対する態度
イ。抑圧(よくあつ)、「もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押さえるだけの力がなかったのである」(3、4節)。

ロ。隔離(かくり)、「汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て」(2節)。

②この人の自分自身に対する態度
イ。孤立、「それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け」(5節)。
ロ。自分自身を傷つける、「石で自分のからだを傷つけていた」(5節)。

(3)正気に返るまで、「汚れた霊につかれた人」と主イエスのやり取り。
①「汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた」(1節)

②主イエス、「汚れた霊よ、この人から出て行け」と言われる(8節)。

③6、7節に見る、「汚れた霊につかれた人」の主イエスに対する言動。

④主イエス、「汚れた霊につかれた人」に、「おまえの名は何か」とお尋ねになる(9節)。

⑤「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから」と答える(9節)。自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願(10節)。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください」(12節)と願う。

⑥主イエス、それを許す(13節)。

[3]「正気に返って」 5章15-20節
(1)「正気に返る」ということば。
15節で、「正気に返る」」と訳されていることばは、新約聖書の他の箇所で、以下のような意味で使われています。
①ロ−マ12章3節、「・・・信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい」
「・・・信仰の量に従って節度のある思いをするように」(前田訳)

②Ⅱコリント5章13節、「もし私たち気が狂っているとすれば、それはただ神 のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです」。

③テトス2章6節、「同じように、若い人々には、思慮深くあるように勧めなさ い」。
「すべての節度があるように勧めなさい」(前田訳)

④Ⅰペテロ4章7節、「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、 心を整えて身を慎みなさい」。

(2)「正気」とは
2-7節に描かれている姿と反対の状態。しかしそれは単に外面的なことではない。
ローマ人12章3節が教えているように、信仰を与えられ、節度ある思いをもって、はじめて正気な状態であると教えられます。
またⅡコリント5章13節が指し示すように、主なる神との関係においてどんなに心を熱せられていても、他の人々との関係においては冷静に事実を見据え、そころからすべての営みを積み重ねる道こそ、正気の道です。
若い人々が日常生活の中で節度や慎みを忘れないことが、正気なのです。 何よりも終末の近いことを意識し、祈りつつキリストある生活・生涯を送ること、これが正気の道です。
印象深いことは、マルコが「着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て」(15節)と描いている点です。当たり前のことを当たり前にすることがどんなにか大きな「正気」の恵みであるかを教えられます。

(3)正気になるために。
①この場面では、豚二千匹ほどが犠牲になり、代価が支払われているわけです。それが現在の貨幣価値でどれほどであれ。「すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるように願った」(17節)とあります。一人の人間が正気に返ることより、豚二千匹の方が価値ありとしたのです。何を大切にするか価値観の違いです。参照マルコ14章3-9節。

②私たちが正気なるためには、いつもそれなりに支払われるべき犠牲があるのです。正気に戻る人はそれを支払うことができないので、その人にとってはただの救いです。しかしそのために誰か他の人が代価を支払っているのです。
私たちのキリスト信仰こそ、私たちが正気に戻った姿です。そのために貴い代価が支払れた事実を決して軽く考えないように。パウロの勧めを、そのまま私たちの生活・生涯の旗印にするのです。この旗のもと生き、死ぬのです。それが正気に戻された者の当然の歩みです。
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい」(Ⅰコリント6章19、20節)。

[4]結び
(1)ルカの福音書15章11節、「またこう話された。『ある人に息子がふたりあった』」。」
マルコ5章1-20節を通して、現代社会における「汚れた霊につかれた人」について考えるとき、もう一つの聖書箇所が助けになります。
それは、私たちが良く知るルカの福音書15章11節から32節、放蕩(ほうとう)息子の記事です。記事が教えている一つの面については、ルカ15章17−19節、「しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』を確認。
ここでは、マルコ5章1節以下での「汚れた霊につかれた人」の状態に当たる、放蕩息子の放蕩の実態に意を注ぎたいのです。
①本来父(神)のものを、自分のものと主張する(ルカ15章12節)。

②父のもとから離れて、本来父のものであるもの(恵み)を、自分もの、自分が勝手にできるものと考え違いをして、湯水のように無駄使いしてしまう。父の恵みを無駄にし浪費はするが、何ひとつ生産できないのです。父のものを湯水のように無駄にするとき、放蕩息子の回りに集まっていた人々は、恵みをことごとく費やし失なわれたとき、彼のところから離れ去るのです。

③豚が食べるものを食べたいと思う。動物との区別を見失う事態。

④根底の問題は、真の「父」を見失っている事実です。ここに立ち戻るほか解決の糸口はないのです。

(2)宣教とは。
マルコ5章19節、「「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」に見る主イエスの命令に、20節、「そこで、彼は立ち去り、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、デカポリスの地方で言い広め始めた。人々はみな驚いた」の模範・モデルが明示するように、聖霊ご自身の内なる助けに支えられて、私たちの生活・生涯において私たちなりに応答して行く、やりがいがあり、また各自にふさわしい道、これが宣教です。
家族、親族、友人そして知人のため私たちは祈り続けるのです。