『先立ち行く主イエスに従い進む』−マルコの福音書講解説教ーその8

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

『その日のこと』
 マルコ4:21-41

[1]序
(1)今朝は、ペテンコステ・聖霊降臨日礼拝です。この日、私たちは群れとして公に、聖霊ご自身に意識的に、集中的に心を注ぐのです。そして私たちが心を傾け進むべき方向を、主なる神の御前に確認します。私たちの日常生活・生涯において聖霊ご自身の導きを徹底的に重視し、生活の全ての面で聖霊ご自身の導きに従いつつ、主なる神から委ねられた営みのため、一つ一つブロックを積み重ねる道を私たちは歩み続けるのです。

(2)今朝の箇所の中で、35節の「この日のこと」を特に注意したいのです。この言葉があるため、21−32節に見る主イエスの教えと35節以下の主イエスと弟子たちの経験が同じ日の事柄で、堅く結ばれている事実を私たちは知ります。教えと実地訓練・体験を切り離し得ないのです。

[2]「その日のこと」、 4章21-34節
35節の「その日のこと」が、34節以前のどこまでを含むかの判断は、それほど容易ではありません。しかし4章21ー34節以下に見る主イエスの譬えの教えが、「その日のこと」に含まれているのは明らかです。この箇所に含まれている三つの譬えの要点を確認します。
(1)21−25節、弟子たちのキリスト信仰は隠し続けることはできず、またそうしてはならないのです。キリスト者・教会の歩みは、隠れたままではいないのです。必ず実を結ぶべきです。要は、「聞いていることによく注意し」(24節)、恵みに応答することです。

(2)26−29節、この譬えは、マルコの福音書以外に記されていません。
種・みことばは、必ず成長します。その成長は、苗、穂、穂の中での実と順序・段階を経て進められて行きます。その成長は、収穫を目標にします。神の国(歴史を通しての主なる神のご統治)も、いちどにすべてでなく、段階を経て進められ行きます。そして歴史の目標は明らかにされています。

(3)30−32節、からし種のようにとても小さいものが、大きなものとなり、他者のために役立つように。
ですから小さい人・小さいことを軽んじるなど許されない。現実の歴史を直視しながら、歴史を導き完成させてくださるお方を礼拝するのです。この生ける神を礼拝する中から、小さいことを大切に、目標を見定め進む新しい生活・生涯へ主イエスの弟子、そして私たちはは招かれています。

[3]「その日のこと、」 4章35−41節
(1)主イエスの弟子たちへの教え
それがどれほど重大か4章1−3節に見る強調を私たちは注意しました。さらに4章3節以下32節まで主イエスの弟子たちに対する教えが数珠(じゅず)つなぎのようにして提示されている事実は、主イエスの教えを主イエスご自身もマルコもいかに重視しているか何よりの証拠です。マルコ福音書を初めて読む人々にとって、またその後いつの時代、いずれの場所においてマルコ読む人々にとっても、主イエスの教えは本当に大切。そして今、ここでマルコの福音書を読む私たちにとっても、主イエスの教えは大切なのです。私たちも、「聞いていることによく注意」(23節)する必要があります。

(2)嵐の中の実地訓練
 主イエスの教えは、いかにも大切です。しかし真の課題は、それほど大切な主イエスの教えがどのように弟子たちが、そして私たちが受け止め、理解し身に着けて行くかです。マルコは、この課題に答えて、4章35−41節において嵐の中の実地訓練とも言うべき出来事を記しています。
その時の状況を、「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった」(37節)とマルコは言及。その中で主イエスは弟子たちの言動に注意し、この記事の中心が何かを明示しています。
①その時の主イエスは、
「イエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた」(38節)のです。突風の中で、疲れのため枕して眠られる、全き人である主イエス(全き人となられた全き神)の姿を見ます。

②その時の弟子たちは、
弟子たちは、主イエスと違い、「おぼれて死にそう」(38節)と思い大騒ぎしていたのです。

③その時の弟子たちのことば、
「先生、私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」
「何とも思わない」とは、ルカ10章38-40節の記事において、「何ともお思いにならないのでしょうか」(40節)と、マリヤの刺のある嫌みなことばとして用いられています。
またヨハネ10章13節には、「彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです」とあります。
岸辺では良き教えることが出来ても、いざ私たちが溺れそうな、この現場ではと、主イエスに対するあまりなことばが発せられています。マタイやルカは記録するに忍びなかったのではないかと思われるほどの言葉です。

④その時の主イエスのことばは、
「風をしかり、湖に、『黙れ、静まれ。』と言われた」(39節)。主イエスのことばの権威、そして自然現象さえ従っている事実を見ます。
「どうしてそんなこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」(40節)と、それと対比して弟子たちの実態を描いています。

⑤この箇所の中心は、「どうして、・・・どうしたこと」(40節)と、弟子たちの不信仰が明らかになる現実の中で、「この方はどういう方」(41節)か、主イエスへの信仰告白と聴従への呼びかけがなされているところにあります。不信仰がさらけ出される実地訓練の中で、なおも弟子を導いてくださる主イエスのご忍耐を見ます。この場面をメガネのようにすると、私たちの姿が確かに見えてきます。また私たちをも導いてくださっている主イエスのご忍耐を覚えます。

[4]結び
(1)[その日のこと」から「その日」
今朝、「この日のこと」を手掛かりにマルコ4章21−41節を味わって来ました。 ところで「この日のこと」ととても似た「その日」という表現がヨハネ福音書20章19節に登場します。この場合も、20章1−18節に記す事柄と20章19−25節に描く場面とが、「その日」、つまり同じ日に起こったことで、相互に太い根で結ばれている事実をヨハネは強調しています。
ヨハネ20章1-18節には、主イエスの復活の事実を伝える心に残る記事を見ます。この主イエスご自身の復活の事実と切り離し得ない出来事として、19-25節をヨハネは描いているのです。
今朝最後に、このヨハネ20章19−25節に注意します。この箇所は、ヨハネが特徴ある方法でペンテコステの出来事の意味を指し示していると受け取る理解を、40年近く前に、ゴードン神学校のマイケル先生から学んだ時のことを思い起こします(マイケル先生は、新約聖書の本格的学びの手解きをしてくださった恩師)。
ペンテコステの驚くべき恵みの事実を、ルカはルカの福音書使徒の働きの二つの大作の連続の中で描き、その要として使徒の働き2章に見るペンテコテの出来事を指し示しています。このように、前編、後編と続く映画のような大作で、ルカはペンテコステの出来事とその意味を伝えています。
それに対して、ヨハネは、このヨハネ20章19−23節を通して描く一枚の絵をもって、ペンテコステの事実とその意味を明示していると言えないでしょうか。この一枚の絵から、2000年の世紀の隔たりを越えて、今朝、私たちに伝わってくるメッセージの幾つかを確認します。
①主イエスの復活の後も、弟子たちは、「イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、まだ理解していなかった」(ヨハネ20章9節)、また「弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあった」(ヨハネ20章19節)のです。

②徹底的な主イエスの恵みの先手、「イエスが来られ、彼らの中に立って言われた」(ヨハネ20章19節)。
③十字架の主イエス(ヨハネ20章21節)が復活の主イエスであり、「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20章22節)と命じ、実現。参照創世記2章7節、ガラテヤ4章6節。
④主イエスからの派遣、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」(ヨハネ20章21節)、その使命を果たすため、聖霊授与(ヨハネ20章22節)
使命の中心は、罪の赦しの福音宣教、罪赦された罪人の共同体形成。
⑤弟子たち・キリスト者・教会の心に、聖霊ご自身が働かれ、「平安」(ヨハネ20章19節、20節)。「弟子たちは、主も見て喜んだ」(ヨハネ20章20節)との実。

(2)ペンテコステの恵みの中で1日の豊かさ
「その日のこと」(マルコ4章35節)も「その日」(ヨハネ20章19節)も、主の恵みの中での一日の豊かさを鮮明に指し示しています。
「主の御前では、1日は千年のよう」(Ⅱペテロ3章8節)なのです。「自分の日を正しく数えることを教えてください」(詩篇90篇12節)と祈り続けます。そして一日には、朝があり、昼があり、夜があります。それが恵みなのです。