使徒の働き味読・身読の手引き・その98

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告


『みな迎えて』
使徒の働き28章30、31節


[1]序 
今朝は使徒の働き最後の2節、28章30節と31節です。この箇所で、ルカはローマで福音宣教に励むパウロ姿を描き、28章に及ぶ使徒の働きを結んでいます。
30節、「こうしてパウロは満2年の間、自費で借りた家に住み、たずねて来る人たちをみな迎えて」とルカは記しています。今朝は、「たずねて来る人たちをみな迎えて」の「みな」に注目し、パウロがローマで満2年間押し進めていた福音宣教の特徴をルカはどのように的確に取られ、使徒の働きを結んでいるか注意します。

[2]ローマ人への手紙に見る「みな」の用法を手掛かりに
 使徒の働き28章30節における「みな」の意味を理解する手掛かりとして、パウロがローマ人への手紙で繰り返し「みな」を用いている事実に注意したいのです。パウロは福音の実態を述べている際、AとBの差別なく、いずれにおいても「みな」との言い方をしている幾つもの実例があります。
(1)ローマ1章16節
 まず最初に、ローマ人への手紙全体の主題を示し、内容を要約している1章16節、「私は福音を恥とは思いません。福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人(みな)にとって、救いを得させる神の力です」。
ここでは、福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、つまり、ユダヤ人とギリシャ人の差別なく、信じる者みなに救いをもたらすものであり、そこに神の力が明らかにされているとパウロは主張しています。
 この1章16節の主張は、2章10節でも、「栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、善を行なうすべての者の上にあります」とくりかえされ、さらに3章22節、「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人にあたえられ、なんの差別もありません」。
これらいずれの実例でも、A(ユダヤ人)とB(ギリシャ人)の差別なく、いずれの場合もみな(すべて)と用いられています。
 以上のように、福音のもとにおけるユダヤ人とギリシャ人の状態を宣言する場合に用いている、「A(ユダヤ人)とB(ギリシャ人)のいずれにおいてもみな」と同じ表現を、罪のもとにおける有り様を指し示す場合にもパウロは用います。たとえば、2章9節、「患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り」では、悪を行なう者はみな、ユダヤ人とギリシャ人の差別なく、とパウロは述べています。
この2章9節の課題は、3章9節でも、「・・・私たちは前に、ユダヤ人もギリシャ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです」と取り上げられ、1章18節から2章24節の結論として、律法の有無にかかわりなく、ユダヤ人とギリシャ人の差別なく、いずれもみな罪の下にあるとパウロは宣言しています。
 次ぎに4章16節について。ここでは、律法がそうであるように、割礼も差別の根拠にならないとの主張を要約しています。割礼を中心にして言えば、割礼のある者と割礼のない者の差別なく、いずれの人にもみなに約束が与えられているのです。

(2)ローマ14章
 14章では、ユダヤ人とギリシャ人の差別を乗り越えたはずのローマ教会において、弱い者と強い者と言う新しい差別が生じている事実をパウロは見抜き、取り上げています。
この弱い者と強い者との差別の根拠は、食物についての差別(14章2節)、日についての差別(14章5節)などです。この新しい差別の危険性に対して、パウロイザヤ書(45章23節)から引用し(14章11節)、弱い者と強い者の差別なく、いずれもみな主なる神の御前にひざまずき、神をほめたたえる福音に生きる教会の姿を大胆に示しています。
14章20節、「食べ物のことで神のみわざを破壊してはいけません。すべての物はきよいのです。しかし、それを食べて人につまずきを与えるような人のばあいは、悪いのです」では、あの食物、この食物と言う差別なく、いずれの食物もすべて・みなきよいと指摘し、パウロは新しい差別が生じる可能性を取り除きます。
 以上の例から明らかなように、福音の事実をパウロが「みな・すべて」を用いて指し示す場合、ユダヤ人とギリシャ人の差別なくいずれもみなとの主張が際立ちます。また福音に生きる者は、新しい差別の原因を生み出すことなく、生活のいずれの場も神の恵みの下にあることを知るべきと教えられます。

[3]使徒の働き28章30節における「みな」 
28節を注意。ローマにおいてユダヤ人が福音を信じようとしない事実を契機に、異邦人へ福音が宣べ伝えられるとパウロは宣言しています。
しかし異邦人への宣教がなされるようになったからと言って、ユダヤ人への福音宣教が中止されたわけではない事実は、使徒の働きを通し他の場所の実例から見たところです。たとえば、ピジデヤのアンテオケの場合。13章44−52節までの出来事とパウロの宣言の後、14章1節以下に見るように、イコニオムでパウロは再びユダヤ人への宣教をなしています。 
ですから使徒の働き28章30節に見る「みな」も、ローマ人への手紙で見たように、ユダヤ人と異邦人の差別なくいずれの人にもみなと、福音の事実を生き生きと示すことばと受け取るべきです。

[4]結び
 ユダヤ人とギリシャ人の差別なく、いずれの人にもみな。
福音は人種や民族の厚い壁を貫いて進み、ユダヤ人もギリシャ人も含む一つの教会を形成して行きます。
人種や民族の壁だけではありません。ガラテヤ人3章26−28節、「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです.バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみなキリストをその身に着たのです。ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」とあるように、社会的階級、性別など差別の壁をも越えて、主イエスの福音は私たちを本来の人間へと解き放って行くのです。