「教会政治・制度−監督教会、長老教会、会衆教会−」

「教会政治・制度−監督教会、長老教会、会衆教会−」

聖望キリスト教
2013年10月27日午後

[1]序 
 この50数年、一人のキリスト者、牧師、神学教師と直面として来た課題の一つは、教会。
教会とは何か。
その一つは、教会はどのような政治・組織を持つべきか。
聖書を読み従いつつの歩みの初期に、決定的な導きになったのは、11958年日本クリスチャン・カレッジ1年生の時、ホーク学長の授業での言葉、「たとい2、3名でも、キリストの御名により集い続けているならば、それはキリストの教会だ」。
「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
(マタイ18:19、20)

[2]時と時代に根差し、越える教会 
 1コリント1章2節を通して。
『新聖書注解』(いのちのことば社)1973年初版で、Ⅰコリントの注解を担当したことは、一つの大切な節目となりました。20代から30代へ、寄居キリスト福音教会から青梅キリスト教会へ、そして神学教育機関での教育担当。その転換期に書いたⅠコリント1章1節の注解は、私自身にとっても、これを読んだ人々にも、継続的な影響を与えました。
 「コリントにある神の教会へ。すなわち、私たちの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに、聖徒として召され、キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々へ。主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。」
(1)「コリントにある神の教会」・・・地域に根差す、教会の根源的事実・神の教会・・・
(2)「キリスト・イエスにあって聖なるものとされた方々」・・・方々・人々、教会とは建物ではなく人格の集合・・・
(3)「聖徒として召された」・・・聖徒、神の目的に従い神の目的を目指す・・・
(4)「私たつの主イエス・キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々」…至る所・地域を越える・・・
(5)「主は私たちの主であるとともに、そのすべての人々の主です。」・・・ともに・地域を越える・・・

[3] 教会政治・制度−監督教会、長老教会、会衆教会−
(1)教会政治をめぐる三つの立場
①監督教会 
中心は、ビショップ(司教、主教、監督)、司祭、執事。三重の職務が、教会の制度。
12使徒の権威は、使徒が任職したビショップたちによって受け継がれると考える。
ビショップにより、その任務を補佐する司祭が任命される。

②長老教会
 みことばに仕える長老と統治の任に当たる治会長老による教会会議による政治。
各個教会レベル(小会)、一定地域内(中会)、その上にある会議(大会)。

③会衆教会
 各個教会の独立と自治。各個教会主義と呼ばれる。
教会の構成員は、すべて神に対して祭司。司教も長老も、会衆の上に立つべきでないと主張。

(2)教会政治をめぐる小さい名著との出会い
 1963年からの留学時代に、以下の小さな名著と出会い、教会政治の理解についての基盤を与えられる。願ったように、Knox教授のもとで学べなかったけれど。
John Knox The early church and the coming great church ,Epworth,1957
 新約時代の教会政治の中には、監督制、長老制、会衆制のいずれも含まれいる。
三つのうちの一つを絶対化して、他を認めないのは、大きな問題。

[4]集中と展開(1)集中
 何時でも、どこでも、小さい集会の誕生と継続。そのために参与。その一つペン剣祈祷会。
沖縄の全高校各校のために祈り続ける祈りの群れの誕生と継続、今後の沖縄訪問の目的の一つ。
「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
(マタイ18:20)

(2)展開
無教会からローマカトリック、聖書的エキメニズムの道を歩む、その提唱と実践。
問題は、単に名詞の問題ではなく、形容詞が大切。
①以下のように、○、×ではない。
監督制○で、長老制×、会衆制×
長老制○で、会衆制×監督制×
会衆制○で、監督制×長老制×

②実際には、良い監督制か悪い監督制
        良い長老制か悪い長老制
        良い会衆制か悪い会衆制。聖霊ご自身と聖書に導かれ、絶えず改革の道。