使徒の働き味読・身読の手引き・その95

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告


イスラエルの望みのために』
使徒の働き28章16−22節


[1]序 
今朝3月の第一主日、4月からの新しい歩みに備える方々を覚え、三月の導きを求めて行きます。今朝味わう使徒28章16ー22節の初めの節・16節をもう一度お読みします。
「私たちがローマにはいると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された」とあります。
16節では、ローマにおけるパウロの住居を中心に一般的な描写をなし、17節以下では、パウロユダヤ人と面接する二つの場面を描いています。
17節から22節では、ローマ到着3日後の事柄、24節から28節では、二回目の面接について記しています。
さらに30、31節においては、16節に対応するように、一般的な描写をなし、そこには、「大胆に、少しも妨げられることなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えた。」とあるように、福音宣教者パウロの姿が力強く描かれています。
 パウロユダヤ人のおもだった人たちとの第一回の対話を描く17節から22節の部分の中で、17節から20節は、パウロからユダヤ人たちの代表へのことば、21節と22節は、ユダヤ人たちのパウロに対する返答です。
このやり取りの中心、20節後半、「私はイスラエルの望みのためにこの鎖につながれているのです」に注目し、この部分を味わいます。

[2]ユダヤ人のおもだった人たちと
 パウロはローマに到着しても、今まで通りユダヤ人に大きな関心を払っています。パウロは、単に異邦人への宣教者と限定されていない事実を注意。
しかしパウロは、16節、「私たちがローマに入ると、パウロは番兵付きで自分だけの家に住むことが許された。」に見るように監視を受け行動を制約されており、他の場所でのように、パウロの方からユダヤ人の会堂を訪問する自由は与えられていなかったのです。
そこで、パウロユダヤ人たちのおもだった人々を招いたのです。
一介の囚人に過ぎないパウロの招きに、ローマのユダヤ人の代表者たちが応じた動機として、22節、「私たちは、あなたが考えておられることを、直接あなたから聞くのがよいと思っています。この宗派については、至る所で非難があることを私たちは知っているからです。」が注意を引きます。
「私たちは、あなたが考えておられることを、直接あなたから聞くのがよいと思っています。この宗派については至る所で非難があることを私たちは知っているからです」と、ローマのユダヤ人たちの代表者たちは語っています。
当事者から直接聞くことを目指す。これが、パウロの招きに応じた一つの理由であったと推察できます。 パウロユダヤ人たちのおもだった人々に対して、「兄弟たち」と呼び掛け,「私の国民に対しても,先祖の慣習に対しても,何一つそむくことはしていない」と、自分の立場をはっきり弁明しています。
そして17節後半から19節前半では、カイザルに上訴するまでの経過を述べています。この表現は、詳しく経過をすべて述べるものではありません。
 ところで21章31節から33節の記述を見る限り、パウロは殺到して来たユダヤ人たちからローマの守備隊の手によって救い出されたのであって、「エルサレムで囚人としてローマ人の手に渡された」(17節)わけではないと指摘がなされる場合があります。
またローマ人の裁判長がパウロを実際に釈放しようとしたことはなく、「私を釈放しようと思った」との表現は、他の箇所と矛盾しないかとも言われます。
しかしここではパウロは全体の流れの要約を述べているのであって、パウロに対してユダヤ人が意義申し立てをなし、ローマ人たちはパウロを無罪と見ていたとの基本線は、出来事の経過を直接描写している使徒の働き21章の場合でも、パウロが出来事を要約しているこの場合でも共通しているポイントです。パウロの主張の中心は、「私はやむなくカイザルに上訴しました。それは、私の同胞を訴えようとしたのではありません」(19節)と、ユダヤ人に対し決して敵対していないと断言している点であることは明らかです。パウロは、誤解や曲解を受けないようにと努力を払っています。

[3]イスラエルの望みのために
 しかし現実にパウロは鎖につながれています。そこで、「私はイスラエルの望みのためにこの鎖につながれています」と、パウロは自分が監禁されている本当の理由は、「イスラエルの望み」のためである事実を明らかにし、ユダヤ人の注意を引きます。
 
(1)「イスラエルの望み」。
パウロは、エルサレムの議会のサドカイ人とパリサイ人の前で、「兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです」(23章6節)と語っていたのです。
また総督ペリクスの前でも、パウロは、「義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております」(24章15節)と明らかにしていました。
さらにアグリッパ王の前で弁明する際にも、「そして今、神が私たちの先祖に約束されたものを待ち望んでいることで、私は裁判を受けているのです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕えながら、その約束のものを得たいと望んでおります。王よ。私は、この希望のためにユダヤ人から訴えられているのです」(26章6、7節)とパウロは明言しています。パウロの裁判は、根本的には、「イスラエルの望み」をめぐっての訴えです。
 「イスラエルの望み」。これこそパウロが今鎖につながれている原因であり、この望みをパウロはローマでも宣べ伝えたいと願っています。
23節後半には、「神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした」と、パウロが「イスラエルの望み」を伝えている様が描かれています。
イスラエルの望み」の根拠は、モーセの律法と預言者たちの書に見る神の約束であり、その内容は主イエス・キリストにかかわることです。

(2)「イスラエルの望み」の二つの側面
この「イスラエルの望み」は、少なくとも、二つの側面を含みます。
①全世界、全宇宙にかかわる側面
一つは、全世界、全宇宙にかかわる側面です。
もう一つは、個人にかかわる側面です。たとえば、ペテロは、エルサレムの人々に、「このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、その万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません」(3章21節)と宣言しました。
「あの万物の改まる時」、つまり新天新地の希望こそ、「イスラエルの望み」の大切な側面です。天と地の創造者である父なる神によって、新しい天と新しい地がもたらされる。この望みこそ、旧約聖書全体の証言に基づく、「イスラエルの望み」の大切な内容です。主イエス・キリストの来臨と再臨によって成就されます。ペテロもパウロも皆一致してこの望みを宣言しています。
 
②個人的側面
しかし「イスラエルの望み」には、もう一つの側面があります。それは個人的側面です。神から離れ、的外れな生き方をしながら、その実情を見て取れない罪人である私たちのために、罪の贖いの道を主なる神ご自身が備えてくださる。
私たちは罪人であって、ただ主イエス・キリストの十字架のみによって救われる。これこそ、「イスラエルの望み」のもう一つの大切な側面です。
プラハムの末であるユダヤ人が、何故罪の贖いを必要とするか。また異邦人がユダヤ人の立場を与えられることなく、ただ主イエス・キリストを信ずることのみによって救われるのか。これは、かってのパウロにとっては理解困難で受け入れがたいことでした。しかしダマスコ途上で復活の主イエスと出会う経験を通し、「イスラエルの望み」の個人的側面をも自分自身の経験としてパウロはしっかり受け止めたのでした。   

[4]結び
「私はイスラエルの望みのためにこの鎖につながれているのです」。パウロは、新天・新地の希望と罪人を個人的に贖い、救い給う両側面を持つ「イスラエルの望み」が、主イエス・キリストにおいて成就されると知らされ、信じ、宣べ伝えているのです。その福音を宣べ伝えて行く中で、今このように鎖につながれています。