「主イエスご自身が教えられた主の祈り」

第3回聖望キリスト教会・宇都宮キリスト集会合同修養会(2)
2013年10月14日(月)日光 オリーブの里

「主イエスご自身が教えられた主の祈り」

[1]序
(1)主イエスご自身の祈り。
①「初めに神」
②「初めに主イエスの祈り」。
聖霊ご自身と祈り。
 洗礼者ヨハネの弟子たちの祈りとの対比で、主イエスの弟子たちが、「私たちにも祈りを教えてください」(ルカ11:1)と、祈り方を知りたいとの求めへの答えとして、主の祈り。さらに祈りについての教えが続く(5−13)。その中で10節、「だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」、さらに13節、「してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

(2)キリスト者・教会の祈り、両者を結ぶ絆ヘブル7:24、25。
「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです」

(3)マタイとルカ。
「マタイの福音書の場合は七つの祈願、ルカの福音書の場合は五つの祈願を含み、それぞれ美しい構造を示す。マタイのものをルカが要約縮小したとか、逆にルカのものをマタイが拡大したと見るよりも、それぞれ独自なものとして受け止めるべきです。
 ルカの場合は、最初の呼び掛けが、「父よ」と短く簡潔であり、第三の祈願を含まない。パンについての祈りも、「今日」ではなく、「毎日」、また「負債」を「罪」と明言し赦しを求める。

[2]「御国がきますように」−たじろがない祈り−ローマ8:23
主イエスは、「時は満ち、神の国は近くなった」(マルコ1:15)との宣言をもって公の宣教活動を開始し、ご自身が父なる神から遣わされたのも、神の国を宣べ伝えるためであると明言なさる(ルカ4:43)。イエスがお語りになり、様々な御業をなし給う時、その人格と宣教を通し、神が王として統治なさっている事実が明らかにされて行く。
主イエスの出現と宣教は、人間の救いのため神の最終的な行為であり、神は人間の歴史の中にご自身を現され、罪と死に勝利なさる。その意味で神の国はすでに現実となっている。  
しかし同時に、神の国は未来のものであり、それが来るよう祈れと教えておられる。最後の解放と勝利はイエスの再臨の時であり、イエスの弟子・教会は、この大いなる望みを目指し望みと忍耐をもって歩む旅の途上で、主の祈りを祈ることを教えられている。
 時代を貫いて、主イエスの弟子・教会は、主イエスの死、復活、昇天、高挙により、子としてくださる聖霊を受け、「アバ、父よ」と神を礼拝する民として、聖霊に導かれ生き歩む。イエスの権威に服し聖霊ご自身の導きを受けつつ、主イエスにあってすでに来りたもうた神の国の側面とやがて必ず終末において現実となる神の国の完成を指し示す。

[3]「日ごとの糧を」−あなどらない祈り−1テモテ4:3後半−5。
神ご自身に直接かかわる事柄を祈ることと同時に、日ごとに必要とするパンが祈りの課題とされており、ここにイエスの深いご配慮を見ます。主イエスの地上での行為と教え全体において、いつも人々の実際的な必要が大切にされています。
「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」(マタイ6:31)とのイエスの言葉は、そうした必要を無視も軽視もしていない。「しかし、あなたがたの天の父は、それがあなたがたに必要であることを知っておられます。」(マタイ6:32)と続けているように、人の必要に対する父なる神のご配慮を強調。問題は、必要のみを求めて、必要を備えて下さるお方を認めなかったり、忘れてしまう事態です。
 日ごとの糧は基本的には手の業・仕事を通して与えられます。パウロはテサロニケの教会の人々に、「ところが、あなたがたの中には、何も仕事をせず、おせっかいばかりして、締まりのない歩み方をしている人たちがあると聞いています。こういう人たちには、主イエス・キリストによって、命じ、また勧めます。静かに仕事をし、自分で得たパンを食べなさい。」(Ⅱテサロニケ3:11,12)と注意を与えています。自分で働き、自分で得たものが、実は主からの恵みとして与えられている事実を悟る道を主の祈りは指示。また「私たちの日ごとの糧」と、自分の必要のためばかりでなく、他の人々の必要のためにも祈ることを教え、この祈りの広がりが自己中心の罠から解き放つ。さらに「日ごとの糧」は、食物だけに限らず私たちが生きていくために欠かすことのできないもの一切を含む。

[4]「私たちの罪をお赦しください」。
日ごとの糧だけでなく,罪の救しなくては人は生きることが出来ない。主イエスが十字架で身代わりの死を身に受けて下さったからこそ、罪の救しを祈り求めることができる(ロマ4:25)のです。主の祈りにおいて、神による罪の救しと他の人々を救すことが堅く結ばれ、罪の救しの恵みは,罪救された者として他の人々を救す恵みへと広がり行く。
主イエスは弟子・教会と同じ立場に立ち、様々な試練に会われ(ヘブル4:15)勝利された(マタイ4:1ー11)。
 試みに会わないとは、何の困難もなく歩みをなすことでなく、様々な戦いに直面する中でも、なお自ら試みに勝利なされた方の深い配慮の下戦い生きることを意味します(1コリント10:13, Ⅱテモテ4:7)。