「主イエスご自身が祈られた主の祈り」

第3回聖望キリスト教会・宇都宮キリスト集会合同修養会(1)
2013年10月13日(日)日光 オリーブの里

「主イエスご自身が祈られた主の祈り」

[1] 序
(1)ルカの福音書使徒の働きを中心に。
「私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。
それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。」(ルカ1:3,4)。

テオピロよ。私は前の書で、イエスが行い始め、教え始められたすべてのことについて書き、 お選びになった使徒たちに聖霊によって命じてから、天に上げられた日のことにまで及びました。」(使徒の働き1:1、2)
 ルカの福音書使徒の働き→キリストとキリスト者・教会の結び

(2)ルカ11:1、祈りを教えられたい願い、真の祈りを知らない、誤った祈りをなす自覚。
「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。』」

[2]ルカ22:39−46、ゲッセマネの祈り→主の祈り(主イエスご自身が祈られた意味での主の祈り).
(1)祈りと習慣。一般に良い習慣がいかに大切であるか、マンネリを恐れない。
①時、場所。「いつものようにオリーブ山へ行かれ」(39節)、「いつもの場所」(40節)。

②姿勢。「ひざまずいて」(41節)。マタイ26章39節、「ひれ伏して」、マルコ14章35節、「地面にひれ伏して」。祈りには、幾つかの姿勢があり、一つの定まったものだけではない。しかし聖書に見る幾つかの姿勢を全く無視し姿勢などどうでも良いとの態度は避けるべき。私たちの心と体には、深い関係があることは明らかですから。

(2)「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(42節)。
①父なる神のみこころ(を知ること)を求める祈り。

②明白な父なる神のみこころに従うための祈り。

(3)「御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた」(43節)御使い・天使について、ヘブル1章14節、「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされるのではありませんか」。

(4)「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」(44節)。「いよいよ切に」→繰り返し。マタイ6章7節とルカ11章5節−13節、18章1節以下。

[3]「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい」(40、46節)。参照マタイ26章40−46節、マルコ14章37−42節、より詳しい描写。
ルカの福音書の描写の特徴は、弟子たちに対する主イエスのご配慮に焦点をあわせている点。「誘惑に陥られないように祈るように勧告。祈りの武装」(A.シュラッター)。
(1)眠っている状態とは、起きるとは。

(3)誘惑に陥らないように祈る。マタイ6章13節、「たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」主の祈りのかかわりで。

[4]結び
(1)主イエスに祈られている事実。ルカの福音書に見る、主イエスの祈りの姿。

(2)主イエスが弟子たちに祈ることを命じておられる事実。主イエスの命令に対して、主のしもべのとるべき態度は。

(3)どのように祈るべきか。聖書の教える祈り。祈りの訓練。祈りの学校。祈りの習慣。習慣を大切にし、良い習慣を身につける努力を払う。 
 「このように福音に基づく自由というものが、訓練、習練、および禁欲を正しく、福音に基づいてしようとすることの反論として主張される場合、あるいは、祈りや、み言葉に親しむことや、身体的な生における放縦や無秩序が、キリスト教的自由の名において是認される場合、そこでイエスの言葉に対する反抗が明らかになる。
そこではもはや、正当な習練が弟子の生活にもたらす喜びも、さらにまた、その習練がもたらす真の自由も知られることはないのである。
これに対して、キリスト者が、<自分は奉仕を拒絶している>と自覚し、<奉仕のための準備をする意欲がなくなっている>と自覚し、さらには、この世とは異なる生活や責務に負い目を感じ、神にあずかる喜びが弱まり、祈る力が失てたことを自覚する場合にはいつでも、みずからの習練によって、断食と祈りによって、さらにまさった奉仕に励む準備をするようになるであろう。」(D.ボンヘッファー