使徒の働き味読・身読の手引き・その58

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

「コリントとエペソ」
使徒18章18ー23節

[1]序 
今朝は18章18節から23節・コリントからエペソへとパウロの一行の宣教活動が進められて行く記事を味わいます。
 18節には、「パウロは、なお長らく滞在してから」とあり、12節から17節に見る裁判の後も、パウロがコリントに続けて滞在していたと明らかにしています。
コリントが地理的、政治的、経済的にどれほど重要な都市であったを思い起こす必要があります。
 ローマ人への手紙1章11−15節には、パウロがローマを訪問、福音を宣べ伝えることをいかに熱望しているか明らかにされています。さらにローマの西、イスパニヤへも目が注がれていることを教えられます(ロ−マ15章23節、「今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりましたし、また、イスパニヤに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを多年希望していましたので」)。
パウロの心は、コリントから西方へ向け開かれています。しかし今は、「シリヤへ向けて出帆した」(18節)のです。
「シリヤへ」とは、22節、「それからカイザリヤに上陸してエルサレムに上り、教会にあいさつしてからアンテオケに下って行った。」からも明らかなように、エルサレム教会やアンテオケ教会と関係する旅を意味します。
パウロはローマ、イスパニヤと西方を、またエルサレム、アンテオケと東方を視野に入れ地理的広がりを心に収めながらコリントを後にエーゲ海を隔てたエペソへ向かいます。

[2]コリント
 18章13節から17節に見る裁判の後にも、パウロはなぜコリントに「なお長らく滞在」したのでしょうか。少なくとも二つの理由が考えられます。
第一は、この判決がパウロに対して有利であり、少なくとも、その後コリントで宣教活動に対し直接的な迫害を受けることがない状態が生じたためと推定できます。パウロは好機を見逃すことなく、積極的な宣教活動を展開したと推察できます。
 第二の理由としては、誕生したばかりのコリント教会がパウロの助けを必要としており、自分の存在がコリント教会に対する迫害の口実にならないと判断して、パウロはコリント教会の牧会を継続したと考えられます。福音を宣べ伝えると共に、福音に応答したキリスト者・教会がいかに恵みの中に生き成長させられて行くかをパウロは伝え続けます。
パウロがコリントを離れた後も交流は継続され、人の行ききや手紙のやり取りがなされ、互いに祈り続けました。コリント教会は成長し、世界教会との生きた交わりの中で、その役割を果たして行きました。

[3]エペソ
 19節の文頭、「彼らがエペソに着くと」とのことばも印象的です。
16章6節に、「アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられた」とあるように、一度は主なる神のご計画の中に、一定の期間閉じられていたアジアへの福音宣教の道が、今や大きく開かれようとしています。異邦人への宣教者パウロは、マケドニヤ地方やアカヤ地方で宣教活動を続けた後、今はエペソに着き、念願のアジア宣教に専念して行くのです。エペソでも着実にことが運ばれます。
パウロは、「自分だけ会堂にはいって、ユダヤ人たちと論じ」(19節)たのです。エペソのユダヤ人たちの応答は積極的で、「人々は、もっと長くとどまるように頼んだ」のです。しかしエルサレム過越の祭りまでに着こうと決心していたためでしょうか、パウロは、「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰って来ます」とのことばを残して、エペソを後にします。
エペソでの宣教。
やがてその道が開かれて行きました。エルサレム、アンテオケ、そしてガラテヤの地方およびフルギヤを次々にめぐって、すべての弟子たちを力づけた後(22節と23節)、パウロは再びエペソを訪問、二年間滞在し(19章10節、「これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。」)、全力を注ぎ牧会伝道に専念します(20章18節)。

[4]結び 
コリントとエペソ。二つの重要な都市に教会が形成され、交わりを保ちながら、それぞれに成長して行きます。
コリントにあって、9、10節、「ある夜、主は幻によってパウロに、『恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから』」と言われた。」に見る主のことばに聞き従ったパウロ。一つの場所にしっかりとどまりながら、ローマへ視線を向け、エルサレムについて考え、アンテオケに思いを馳せ、そしてエペソへ向かいました。主なる神のご計画は、一つの場所で確かに進められると共に、同時多発的に押し進められて行きます。