使徒の働き味読・身読の手引き・その50

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

「神が私たちを招いて」
使徒16章6ー10節

[1]序 
今朝は94年度最後の主日礼拝です。
使徒16章6−10節を直接見る前に、16章1節以下に見る第二次宣教旅行がもともとどのような計画に基づき進められたのか15章36節、「幾日かたって後、パウロバルナバにこう言った。『先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。』」を、もう一度注意したいのです。  
アンテオケにおいて、パウロバルナバに呼びかけたのですが、マルコの同行をめぐり、バルナバパウロは別行動を取ることになり、パウロは計画通り町々の集会を再び訪問し励ました結果、「こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った」(5節)のです。
 16章6節以下では、パウロたちがアジアからヨーロッパへと新しい地域へ福音を伝えて行く様を記録し、宣教活動を導かれる宣教の主、主イエスの権威を鮮やかに描きます。6節と7節は、アジアで宣教活動が制約を受けた場面、9節と10節は新しい段階への出発点。

[2]アジアで 
6節の前半に、「アジアでみことばを語ることを聖霊によって禁じられた」とあります。ここでの「アジア」は、新改訳脚注に、「小アジアの西海岸の州」とある地域のことです。パウロの一行は、ピシデヤのアンテオケから西へ進み、アジア州の首都エペソその他の中心地へ向かう計画を立てていたと考えられます。この計画は「聖霊によって禁じられ」、彼らは、「フリギヤ、ガラテヤの地方」、つまり小アジアの内陸の辺びな地域に導かれました。
パウロの一行は十分宣教旅行計画を練り(15章36節、16章4、5節)、それを実行して行きました。しかし同時に、その歩みにおいて困難な状態の中で幾日も主なる神の導きを求め、たがいに相談しながら次第に神のみ心を悟って行ったと推察されます。
6節の「聖霊によって禁じされた」、7節の[イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」との表現は、福音宣教の、そしてすべての中心がどなたであるかを明きかにしています。

[3]神が私たちを招いて
パウロの一行は、主なる神のみ心に従い退くべきときには退き、進むべきときには進み、「ムシヤを通って、トロアスに下」(8節)って行ったのです。トロアスでも、おそらく福音宣教に励んだと推察されます(20章5,6節参照)。しかしその活動についてはルカは何も直接伝えていません。最も大切な事柄を、9節と10節で描いています。
(1)パウロは。
9節では、ある夜、パウロが見た幻とその意味をルカは伝え、マケドニヤ地方全体の必要を強調しています。
この幻の記事を通して、神のご計画の中で、一定の地域がになう役割について考えさせられます。それは、沖縄など一定の地域と福音宣教との関係などだけでなく、私たちそれぞれがどこで生まれ、住み、働いているかなど場所の意味についても注意する必要を教えられます。
「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けて下さい」と、マケドニヤにとって必要な助けが福音の宣教であると示しています。

(2)私たちは。
9節から10節へ。9節は、パウロ個人の経験。しかしそれはパウロ個人のものとして止どまらないのです。「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したから」(10節)。「私たちは」、「私たちを」と繰り返し強調しています。
パウロ個人の経験はパウロの一行に伝えられ、各自が深く理解したのです。

[4]結び(1)今朝の記事を通して、主なる神に従い、止どまりまた前進する、神の国と義を第一に求める生き方(マタイ6章33節)を教えられます。

(2)個人の経験と群れの経験との結び。