使徒の働き味読・身読の手引き・その40

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告


「神のことばを聞いて喜び」
使徒13章44ー52節

[1]序. 
 今朝は使徒の働き13章44節から52節を味わいます。
この箇所は、パウロの宣教の結果を告げる42節と43節に直接結びつきます。42節と43節では、ピシデヤのアンテオケにおける最初の安息日の様子を描いていました。44節以下では、それから一週間後「次の安息日」の出来事をはじめ、福音をこばむ人々と福音を受け入れる人々についてルカは描きます。

[2]福音をこばむーなぜ,どのようにして,その結果ー
(1)最初の安息日から一週間。
最初の安息日から一週間、パウロバルナバは、43節に見たように個人的に福音を伝えたり、人々を信仰告白へ導いていました。様々な機会に二人の働きを通して新しい求道者も起こされ、また新しく主イエスを信じ,従う決心をした人々も一週間あかしを続けたと推察できます。こうして「次の安息日には、ほとんど町中の人が神のことばを聞きに集まって来た」のです。
どのような人々が、どのような動機であつまったのかルカは詳しくは語っていません。しかし、「神のことばを聞きに集まってきた」とルカはその動機を好意的に見ています。集まって来た人々の大部分が,ユダヤ人以外の異邦人であったことも前後関係から明白。
 
(2)「ユダヤ人たちはねたみに燃え」。
ところが次の安息日、今まで一度も会堂に出席したことのない人々が集まって来たのを目撃したとき、「ユダヤ人たちは、ねたみに燃え、パウロの話に反対して、口ぎたなくののしった」のです。最初の安息日の場合とは事情が異なっています。
 なぜでしょうか。その理由として、ねたみと見る意見があります。今までユダヤ人会堂に集まって来た異邦人の数とは比較にならない群衆を目撃、自分たちが果たし得なかったことをパウロバルナバが見事になしている様を見て、ねたましく思ったという理由です。これは人間の心の動きを知る見方です。しかしこの場合、他の理由があったと考えるべきです。救いはどこまでもアブラハムの子孫に対する祝福であるとユダヤ人の立場に立つ人々です。異邦人が割礼を受けユダヤ人の立場に立って祝福を受けることは認め得ても、異邦人のままで主イエスを信じるだけで救われると言うのは律法に反するとして、パウロが宣べ伝える福音をこばんだと考えられます。
 
(3)福音の拒絶に直面。
福音の拒絶に直面し、パウロバルナバは、福音がまずユダヤ人に対して宣べ伝えられることは正しいと認めます。しかしせっかく与えられた機会なのに、ピシデヤのユダヤ人は福音をこばみ、「自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めてしまう」と指摘します。
さらに、「見なさい。私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます」と、異邦人伝道を公然と開始します。その際、47節に見るように,イザヤ書49章6節、
「主は仰せられる。
  「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、
  ヤコブの諸部族を立たせ、
  イスラエルのとどめられている者たちを
  帰らせるだけではない。
  わたしはあなたを諸国の民の光とし、
  地の果てにまでわたしの救いを
  もたらす者とする。」
を引用しています。
このイザヤ49章6節は、ルカの福音書2章32節でも引用されています。幼子イエスご自身において成就されていると老シメオンは喜びに満たされて宣言します。ところがこの箇所では、主イエスを宣べ伝える使徒たちを異邦人の光りと理解しています。イザヤが預言する救いの約束は、主イエスにおいて成就されたのです。救いはユダヤ人だけに限らないのです。主イエスこそ、異邦人の光りです。地の果てにまで及ぶこの救いを、もし自分だけのものと考えたり、そのように生きるなら、福音をこばむことになると教えられます。

[3]福音の受け入れーその根拠とつつしみ 
 異邦人の光りついての預言は主イエスにおいて成就され、今パウロバルナバを通し宣べ伝えられています。この事実に異邦人たちは直面して喜び、主の御名を賛美します。では彼らは福音をこばんだ人々に比較して、何か特別に優れた点があるのでしょうか。いや彼らには何も誇るべきところはないのです。ことは一方的な神の恵みに基づくのです。神の恵みの前に本当の慎みを知り、感謝しつつ生かされる道が示されています。

[4]結び
 主イエスは異邦人の光り。パウロユダヤ人と異邦人の関係について、ローマ人の手紙9章から11章までに書き記し、その結びの11章36節で賛美をなし、12章1節と2節で礼拝の生活について勧めを与えています。一方的な神の恵みに対する感謝、感謝からの献身の道です。