使徒の働き味読・身読の手引き・その8

沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告。

救われるべき名」
使徒の働き4章5節ー22節

[1]序 
私たちは、すでに二回ペテロの宣教を聞いてきました(2章14ー36節、3章12ー26節)。今朝は三回目の宣教で、4章8ー12節に短く、しかも力強く描かれています。
その背景については、5節と6節に示されています。最高法院の面前で、「あなたがたは何の権威でによって、また、だれの名によってこんなことをしたのか」(7節)と問われる中で、「そのとき、ペテロは聖霊に満たされ、彼らに言った」(8節)と、主イエスが弟子たちに約束なさった事実(ルカ12章11、12節)を経験します。ペテロは、「民の指導者たち、ならびに長老の方々」(8節)と呼び掛け、二つのポイントを巡り弁明を展開します。第一は、9ー11節で直接3章1節から8節の出来事にかかわること。次に12節では、中心となる宣言。

[2]「礎の石」4ー12節
(1)「よく知ってください」、8ー11節。
 一人の男が「神を賛美する者」とされた、この「良いわざ」に対し、罪を犯したと裁こうとする人々に、「皆さんもまたイスラエルのすべての人々も、よく知ってください」(10節)とペテロは問題の核心に迫ります。
現にいやされ、人々の間に立っている男の存在を通して、「あなたがたが十字架につけ」殺した主イエスは復活なさったのであり、本当の救い主であると指し示します。
 11節、「『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった』というのはこの方のことです。」では、詩篇118篇22節を引用。主イエスにおいて成就された、人々の拒絶と神の救い対比し、主イエスの比べるもののない権威を明らかにします(エペソ1章21節)。

(2)「この方以外には」、12節。
 主イエスの十字架のゆえに、救われるはずのない者にまで及ぶ「救い」。単に一時的、また部分的なものではなく、主イエスが再び来り給うとき完成し、永遠に神を喜ぶ「永遠のいのち」にいたる「救い」。この救いを「私たちが救われるべき名」とペテロは受け止め、指し示しています。

[3]「大胆さ」、13ー22節 
13節と14節では、ペテロの宣教に対する最高法院の反応を描きます。
15ー18節では、最高法院内部の協議とペテロとヨハネに対する命令。
19,20節では、ペテロとヨハネの応答。
最後の21,22節では、3章1節以下の記事ついてのルカの締めくくり。この部分では、19節と20節、
「ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。 私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」に見るように、ペテロとヨハネの大胆さが特に目立ちます(参照28章30節)。

(1)「大胆さ」とは。
 主イエスご自身が指し示しておられるように、福音を「はっきり」(マルコ8章31、32節)とまた「公然」(ヨハネ18章20節)と宣べ伝えること。
 ペテロとヨハネが大胆であり得たのは、主イエスの血により罪赦され喜びに満たされ、神の愛の現実を経験していたから。

(2)「大胆さ」の実例
 ペテロとヨハネは、人間の権威と神の権威との関係ついて正しい理解を持ち実践します。全能なる神が、人間の中に各種の権威を与えておられる。神の権威を認めて、それぞれの人間の権威に従います。しかし人間の権威には限界があり、神の権威や意志に逆らい、自らの権威を主張することは出来ないのです。
ペテロとヨハネは、ある時は、人間の権威に従うことを通して、神の権威に従います。また他の時には、神のみこころに逆らう人間の権威に従はないことにより、神の権威に従います。

[4]結び
 「私たちが救われるべき名」を知り、大胆に伝えるペテロとヨハネ。彼らは、人間関係の中で主なる神に従い進みます。この「私たち」の中に、今、ここで私たちも含まれています。感謝です。