ルカの福音書味読・身読の手引き・その85

☆沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告。

「祈っていなさい」
ルカの福音書22章39ー46節
[1]序
 
 今朝は、午後に秋の教会総会を控えています。
今年の秋の教会総会の議題の第一は、「首里福音教会の90年代後半の歩みついて」です。それは二つの面を持ちます。
(1)基本的宣教方針の確認
 多くの人々、教会により祈り支えられて来た感謝と共に、主のしもべとして、他の働きや地域(特に芦北祈りの家、伊江島)、教会のため祈り献げる群れとしての成長・成熟を目指す。そのためには首里福音教会全体としての内的充実また私たち一人一人の霊的整えが求められます。

(2)内容的充実の一部として
(イ)会堂・学生センターのための借り入れ返済の促進
(ロ)宗教法人化について、調査と具体的準備.教会員名簿その他教会として記録の整理
(ハ)後任牧師について、将来に備えて準備
 この課題は、私たちの10月の主日礼拝で導かれている、祈りと時・歴史について聖書が指し示す豊かな意味を悟り、主イエスに従い進みたいとの目標に重なっています。
 10月3日の主日礼拝では、ルカ22章31〜34節を通し、「しかし、わたしは、あなたのために祈りました」との主題で、主イエスが私たちのために祈っておられる事実に心を注ぐことが、祈りについて教えられる基盤である事実を確認いたしました。
今朝の箇所は、主イエスが弟子たちのためにどのように祈られたかを示す、印象深い実例です。しかもそればかりではなく、弟子たちのために祈られる主イエスご自身が弟子たちに祈ることを命じておられるのです。

2]ゲッセマネの祈り→主の祈り(主イエスご自身が祈られた意味での主の祈り)
(1)祈りと習慣。一般に習慣がいかに大切であるか。
①時、場所。「いつものようにオリーブ山へ行かれ」(39節)、「いつもの場所」(40節)。

②姿勢。「ひざまずいて」(41節)。マタイ26章39節、「ひれ伏して」。マルコ14章35節、「地面にひれ伏して」。祈りには幾つかの姿勢があり、一つの定まったものだけではない。しかし聖書に見る幾つかの姿勢を全く無視し姿勢などどうでも良いとの態度は避けるべき。私たちの心と体には、深い関係があることは明らかですから。

(2)「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(42節)。
①父なる神のみこころを求める祈り

②明白な父なる神のみこころに従うための祈り

(3)「御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた」(43節)。御使い・天使について、ヘブル1章14節、「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされるのではありませんか」。

(4)「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。」(44節)。「いよいよ切に」→繰り返し。マタイ6章7節とルカ11章5節ー13節、18章1節以下。

3]「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい」(40、46節)  マタイ26章40ー46節、マルコ14章37ー42節には、より詳しい描写。ルカの福音書の描写の特徴としては、弟子たちに対する主イエスのご配慮に焦点をあわせている点をあげることができます。「誘惑に陥られないように祈るように勧告。祈りの武装」(A.シュラッター)。
(1)眠っている状態とは

(2)起きるとは

(3)誘惑に陥らないように祈る
 マタイ6章13節、主の祈りの中で。

[4]結び
(1)主イエスに祈られている事実。ルカの福音書に見る、主イエスの祈りの姿。

(2)主イエスが弟子たちに祈ることを命じておられる事実。主イエスの命令に対して、主のしもべのとるべき態度は。

(3)どのように祈るべきか。聖書の教える祈り。祈りの訓。祈りの学校。祈りの習慣。習慣を大切にし、良い習慣を身につける努力を払う。 
11月23日(火)の一日祈祷会の目的、予定、備え。
 「このように福音に基づく自由というものが、訓練、習練、および禁欲を正しく、福音に基づいてしようとすることの反論として主張される場合、あるいは、祈りや、み言葉に親しむことや、身体的な生における放縦や無秩序が、キリスト教的自由の名において是認される場合、そこでイエスの言葉に対する反抗が明らかになる。
そこではもはや、正当な習練が弟子の生活にもたらす喜びも、さらにまた、その習練がもたらす真の自由も知られることはないのである。これに対して、キリスト者が、<自分は奉仕を拒絶している>と自覚し、<奉仕のための準備をする意欲がなくなっている>と自覚し、さらには、この世とは異なる生活や責務に負い目を感じ、神にあずかる喜びが弱まり、祈る力が失てたことを自覚する場合にはいつでも、みずからの習練によって、断食と祈りによって、さらにまさった奉仕に励む準備をするようになるであろう。」
(D.ボンヘッファー