ルカの福音書味読・身読の手引き・その83

☆沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告。

「しかし、わたし(主イエス)は、・・・あなたのために祈りました」
ルカの福音書22章31ー34節
[1]序 
先週、私たちは天願姉妹のため特別に祈り続けて来ました。
姉妹もまた、私たちのため祈り続けておられます。皆様が今手にしておられる、若き主任看護士として活躍する中で、癌の告知を受けた天願姉が書き送ってくださった、「首里福音教会の兄弟・姉妹へ」に見るように、平安のうちに祈りに専念しておられます。
私個人も、この一週間祈りの大切さについて心の底より教えられました。

 新しい月,10月を迎え、17日には秋の教会総会を予定。首里福音教会の1990年代後半の歩みについて基本線を確認する機会です。
この月も主日礼拝を恵みのときと認めて、一週一週、一日一日の歩みを主なる神の恵みに応答し歩みを続けて行きます。今月の主日礼拝では、以下の予定です。
①3日ルカ22:31−34「しかし,わたしは・・・あなたのために祈りました」
②10日ルカ22:35−38「しかし、今は」(Ⅰ)
③17日ルカ22:39−46 「祈っていなさい」
④24日ルカ22:47−53 「しかし,今は」(Ⅱ)
 ①と③は、祈りについてです。主イエスご自身に祈られている恵みの事実。同時に、主イエスご自身に祈るように勧め命じられている事実を心に刻みたいのです。
②と④は、「今」、つまり「時」についての洞察です。祈りと時・歴史について聖書が指し示す豊かな意味を、この10月私たちが悟り,主イエスに従い進めと求められています。

[2]「シモン、シモン。見なさい。サタンが」(31節)
(1)「シモン、シモン。見なさい」
 28−30節に直接続いて。弟子としての恵みを軽んじたり無視したりしないように、恵みに答え進む道を明示。
①「シモン、シモン」
 シモン・ペテロについて、22章54―62節(11月7日、「三度わたしを知らないと」)、ヨハネ21章15−23節(11月14日、「わたしを愛しますか」)を通しても聖書に聞き続けます。ペテロにとり主イエスを知ること主イエスを愛するとは、どのようか事実を意味するのか。そして私たちにとってはどうか。真に聖書に聴従したい。
 シモン・ペテロは弟子の群れ(31節、「あなたがた」)の一人、ある意味で弟子を代表しています。ペテロに現実なことは他の弟子にとっても現実なのです。
二度続けての呼びかけについては、8:24、10:41、13:34、使徒の働き9:4、22:7、26:14参照。とても大事なことを伝えるしるし。

②「見なさい」、赤信号。十分な注意を払うよう求めています。

(2)「サタンが」
①サタンを軽視、無視する危険。8:12、22:3注意。サタンの策略の一つは、サタンの存在と働きを軽視、無視させることです。

②サタンを過大視する危険。もう一つの策略は、過大視さすことです。主イエスのことよりサタンのことばかり話したり、注意を払ったりさせることは、まさに罠です。サタンの限界、縛られている事実をはっきり見抜くべきです。10:18、「イエスは言われた.『わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。』」。

[3]「しかし、わたしは、・・・あなたのために祈りました」(32ー34節)
(1)「わたし」 主イエスが中心。そのことが群れ全体と私たち各自の心、生活・生涯に現実となるために聖霊ご自身の助けが必要です。私たちは、聖霊ご自身の助けを求め続けるのです.
①「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました」(32節)。

②主イエスが見通すペテロの現実。「しかし、イエスは言われた。『ペテロ、あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」(34節)。

(2)シモン・ペテロは
①「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
主イエスが中心です。しかし「だからあなたは」と、ペテロにも主イエスに祈られている者としての責任・役割があります。
「だからあなたもまた」と強調されています。主イエスはペテロを知り抜いておられる上で、なお兄弟を力づける役割を与え期待なさっておられます。
「力づける」については、Ⅰテサロニケ3:2、13、Ⅰペテロ5:10参照

②「シモンはイエスに言った。『主よ.ごいっしょなら、牢であろうと、死であろうと、覚悟できております.』」(33節)。
 ペテロは自分のことのみに関心を払うだけ。他の弟子たちに対する配慮は、ここには全く欠けています。また自分の覚悟を頼り、主イエスの祈りを必要している現実を認めていないのです。この事態が、ゲッセマネの園での姿(45節)や54ー62節に見る、三度主イエスを否むことと深く関係していると推察されます。

[4]結び
(1)サタンについて
 少なくとも、ヨブ記1と2章、エペソ人への手紙6章10ー20節を手引きに考える必要があります。そこを通し教えられる二つの点に注意すべき、
①無視しない。

②過大視しない.
ではどうしたらよいのでしょうか。自分の一切に頼らず、自分の弱さを自覚し、戦いの厳しさを認め、祈りを中心とする神の武具を身につけることです。
主イエスご自身も祈りによって、ペテロに対するサタンの働きに対して戦われています。まして私たちが祈りを軽視したり、怠って良いわけがありません。10月、私たちは特別に祈りについて教えられようとしています。これから12月までの歩み、私たちの生涯と首里福音教会の歩みにおいて記念すべき祈りの訓練のときとなると確信します。病室で静かに平安に満たされながら執り成し祈る天願姉妹の姿に日々接し、そのように痛感しています。

(2)「しかしわたしは」と、はっきり語られる主イエスのことばを通して、ペテロまた弟子のすべてについて判断すべきです。
主イエスご自身からすべてを見るのです。主イエスを中心に万物が成り立つ事実に基づき、そのように万物を見るのです。「キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです」(コロサイ3章10節)。そしてこの基盤に立ち、今朝特に教えられることは、ペテロの自分についての判断からではなく、主イエスがペテロのため、弟子たちのために祈られるている事実から、ペテロや弟子たちについてまた私たちについて判断すべきだ、この一事です。
 では、主イエスはペテロのため、どのような祈りをささげられているのでしょうか。大切な手掛かりがあります。ヨハネ福音書17章です。主イエスの祈りの内容を示す、この箇所を今週じっくり味わうようにお勧めします。ヘブル人への手紙7章25節を心に刻みたいのです.
 今私たちは自分の祈りの生活についてどのように判断し、実践すべきなのでしょうか。33節のペテロの道でしょうか。それとも32節に明示されている、主イエスご自身が指し示す道でしょうか。そうです。私たちは主イエスに祈られているから、励まされ支えられて祈るのです。その生活を進もうとする時、日々の実践、そして週ごとの祈祷会は軽視できません。まして無視などできません。まず一歩は、特定の人のため祈り始めることです。そして祈り続ける。祈り、それがサタンの攻撃に打ち勝つ、主イエスが備えてくださっている恵みの手段、武器なのです。最後にもう一度、エペソ6章10節以下を。