ルカの福音書味読・身読の手引き・その82

☆沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告。

「しもべにして王」
ルカの福音書22章24ー30節

[1]序
 今朝は、4月からはじまった1993年度前半最後の主日礼拝です。10月から来年3月までの後半へ進む折り返し点です。この節目のとき、少なくとも10月から12月まで三箇月の歩みを見通したいのです。
10月には、17日に秋の教会総会を予定しています。1990年代の後半について大きく考え導きを求める大切な機会です。
11月は今年も姉妹教会の協力伝道の月です。青森から田村先生をお招きして、23日(火)から28日(日)まで、姉妹教会のそれぞれで伝道集会が開かれます。首里福音教会は、26日(金)です。
そして12月10日には、上原令子さんをお招きしてコンサートと音楽委員会を中心に計画を進めています。
また12月22日台湾から羽田にお帰りになる、牧野宣教師ご夫妻に是非沖縄にお寄りいただけるようお願いしているところです。
牧野ご夫妻は20年に及ぶ東南アジアでの宣教を終え、来年1月より日本での新しい責任を担うべく導かれています。
みことばに導かれながら先を見通すと共に、みことばに足元を照らされながら主なる神に従う歩みを一歩一歩継続して行きます。定例集会でのみことばの学び、各自の日々のみことばの味わいを大切にしながら。

[2]「あなたがたは,それではいけません」(24ー27節)
(1)弟子たちの現実(24、25節)
①23節までに描かれている大切な場面で、「また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった」(24節)と指摘されているすがたが、弟子たちの現状です。参照29ー46節ゲッセマネの場面での弟子たちの姿。 
弟子たちなりの理由として、主イエスと一緒にいるのが最後とすれば、自分たち間での順位をはっきりしたいと願ったなど。

②周囲の物差し、価値観の影響
「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています」(25節)。弟子たちは、このような支配体系とその背後にあるものの考え方や価値観の中で生きていました。24節に見る弟子の現実は、周囲からの影響と見て良いでしょう。
私たちも周囲の人々に支えられて生きています。沖縄のキリスト者・教会として、沖縄の歴史、文化や生き方から多くの良きものを神の恵みとして受け歩みを続けています。
しかし同時に、周囲のものの考え方や価値観が私たちを聖書の教えとは違う方向へと強く影響している事実を認める必要があります。

(2)弟子たちのあるべき姿
①「だが、あなたがたは、それではいけません。」(26節)。
否定の戦い。皆がそうだからと言って、そのようにはしない生き方。
しかし否定の戦いは、何もしないことを意味しません。消極的な生き方ではなく、新しい積極的な生き方をなす戦いです。

②実際的な目標や指針。「一番偉い人は一番年の若い者のように」、「治める人は仕える人のように」。

(3)主イエスご自身の実例
①27節前半、誰でもわかる事実あげ、その上で「しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています」。直接的には、22章14節以下の食卓の場面。しかし、主イエスご自身の在り方そのものについて、マルコ10章45節に明示。参考ヨハネ13章1ー20節。真の偉大さは、仕える姿を通して示されて行きます。

②教会の役員が聖餐式の分餐の奉仕をする役割のうちに、「給仕する者」にならう道を進む姿を見ます。明治時代、ある群れでは、教会の指導者のことを「おしもべさん」と呼んでいたとのことです。しかし誰の、「おしもべさん」かが大切な点です。

[3]「けれども、あなたがたこそ」(28ー30節)
(1)24節に見るような弟子の現実の姿にもかかわらず、なお弟子たちに対する主イエスの理解と期待。「けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです」(新共同訳,「絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。」)。
27節までと28節への移行は、理解困難と指摘されています。しかし31節以下の主イエスのペテロに対する態度、39節以下に見る弟子たちへの勧めは、この移行をどのように受け止めるべきかを教えてくれています。主イエスの弟子の道とは、「イエスが静かな自己放棄のうちにその服従を完成された。そのすべてによって、弟子たちがイエスから引き離されることはなかった。・・・十字架の苦しみが待っているだけとなり、キリストの力が現われずにいる時、彼らは絶え抜いた」(A.シュラッター)。

(2)主イエスの驚くべき約束(29と30節).

[4]結び
(1)生まれ育った環境・文化の影響
弟子たちへの恵みと危険。そして沖縄のキリスト者・教会への恵みと危険。首里福音教会の一人一人と群れへの恵みと危険。
①私たちの生まれ育った環境の良いもの、神からの恵みとして忘れないように。正しい意味での誇りを持つ必要。

②しかし細心の注意を払わなければならないのは,「だが、あなたがたは、それではいけません。」と明らかにされている事実です。私たちの周囲であたりまえであっても、私たちが従ってならない道があります。しかしそれらは、私たち自身を深く影響していて気付くのがとても困難です。物差しや価値観そのものが問題になるのです。福音と文化の関係、つまり親や兄弟との関係です。「だが、あなたがたは、それではいけません」とは、より積極的に生かされ、環境を変えて行く、新しい文化を形成する偉大な「イエス」のため、必要な「否、ノー」の道への招き。

(2)主イエスご自身に目を注ぎ続け、主イエスご自身に従い、与えられた場・役割に踏み止どまる歩みを続ける生涯。
①主イエスご自身、王にしてしもべ・しもべにして王、生きた模範。

キリスト者・教会。主イエスご自身に従い生きる道を、ルターは「キリスト者の自由」として、その二面性を指し示しています。
キリスト者は、あらゆるものの中で最も自由な主であって、何ものにも隷属していない。
キリスト者は、あらゆるもののの中で最も義務を負うている僕であって、すべてのものに隷属している(参照Ⅰコリント9章19節)。
 しもべにして王の道は、ピリピ人への手紙2章6ー11節に徹底的に、そして美しく描かれています。1ー5節の勧めと切り離されずに。
 私たちの社会のあらゆる分野に、サーバント・リーダー(しもべとしての指導者)を送り出していくこと、これが教会に与えられている貴い使命の一つです。沖縄の教会が沖縄の社会に負っている使命として、主イエスから委ねられている。教会学校の役割、伊江島中高生キャンプの位置、さらに福音に堅く立つ沖縄での教育機関(たとえば伊江島主僕高校)の誕生と成長を思います。
 六十年にわたりベットでの生活を送り、今年美しく召天されていった,小沢容子姉妹8青梅キリスト教会)は、このように歌っておられます。

下働きの人
ろうかのおそうじ、便所そうじ、おしめの取り替え
     私は、そういう人を尊敬する
     そういう人がいなかったならば
ドクターもろうかを歩けず
ナースもろうかを歩けず
   面会人もろうか歩けない
そういう方々を尊敬する