ルカの福音書味読・身読の手引き・その79

☆沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報k告

「いつも油断せずに」
ルカの福音書21:20ー38節

1]序
 8月末の日々の歩みを、主の導きの中に進めることを許されています。
また新しい月・9月を目前に、今朝は第五主日の礼拝、感謝です。
8月23日(月)から26日(木)、東京への旅行、祝福を受けつつ終えることができました。一日一日、一つ一つのことが恵みでした。
たとえば、弟三郎牧師家族、新と私で、青梅市営墓地の中で十字架の立つ父の墓地に行き、新と幾つかのことを話すことができたこと。
久し振りに会う忍望と新と私の三人で、小学校の5年と6年の担任・花井先生を新居に訪問できたこと。花井先生は私たちの訪問を喜んでくださり、「今の新君と同じ時に、君たちのお父さんは」と、大切に保管しておられる小学校時代の写真や作文を見せてくださいました。小学校卒業後10年・1963年の8月、アメリカ留学に旅立つ際、横浜港に来てくださった花井先生や小学校の友人たちの写真。時に応じてお送りしていた忍望の幼児期の写真や新の赤ん坊のときの写真、そして首里福音教会の新会堂・学生センターの写真などを出して見せてくださいました。
新にとっては印象深い経験だったようです。つばめ会と名づけられたクラス会の有志が、今日29日の午後に花井先生の新居に集まることになっていますが。それには参加できなくとも、一歩早く幸いな時を与えられました。また私たちが先生を訪問すると聞いて駆け付けてくれたクラスの一人とは、近い将来クラス会を沖縄でと話し合ったことです。
 主イエスにあって年を重ねる幸いの一つは、30年や40年前のことを昨日のことのように見たり感じたりできることです。そして30年や40年後のことを、主なる神の導きを確信しながら、明日のことのように待ち望みつつ、今日の小事に専念できることです。
27日の地区牧師会では、伊江島キャンプの将来について幾つか大切なことを確認しました。主なる神様の導きを求め新しい週、新しい月の歩みに備えつつ、今朝もルカの福音書を読み進めます。今朝の箇所・21章20ー38節の全体的な流れを、五つの部分に分け見通し粗筋を確かめ、次にこの全体の流れを大切にしながら、34ー36節に集中し終末についての教えにかかわる、主イエスの実際的な勧めに心を傾けます。

[2]「これらのことが起こり始めたなら」(20節−38節)
(1)20ー24節、エルサレムが軍隊に包囲されたなら。この部分でルカが描いていることは,
①主イエスご自身の元々の教え、

②紀元66ー70年ローマ軍、エルサレムを実際に包囲、陥落させた出来事。

③初代教会が主イエスの教えと実際の出来事から教えられ導かれたこと、
この三つが一つとなっていると見てよいでしょう。

(2)25ー28節、「日と月と星には、前兆が現われ」(25節)と示されているように、宇宙的な規模のしるしについて。人々はこれらのしるしに接し混乱に陥ります。しかし主イエスの弟子たちは、人の子(主イエスご自身)の来臨を覚えて励ましを受けるのです。主イエスの再臨こそ、彼らの贖いが最終的に完成する時なのです。
(3)29−33節、最終的な出来事をめぐることごとの確かさ。ここに見る主イエスのたとえの中心は、「神の国は近い」(31節)事実と主イエスのことばの確かさ、不変性についてです。

(4)34ー36節、主イエスの終末についての教えの結びとして、実際的な勧め。
油断なく、祈り続けるようにと。

(5)37ー38節、主イエスの公生涯の結び。日中は、宮で教え、夜はオリーブ山で過ごす。19章47、48節、22章39節参照。

[3]「いつも油断せずに祈っていなさい」(34ー36節)
(1)実際的な勧め。終末についての単なる教え・知識ではなく、それに基づく生活・生き方(義なる務め・義務)が課題です。
この点を聖書全体で繰り返し強調しています。たとえば、「深酒」のかかわりでは、ルカ12章45節、マタイ24章49節、エペソ5章18節、Ⅰテサロニケ5章7節などで明らかに教えています。
 「・・・私たちが明るい目と思慮深い澄んだ精神をもち、目の前で起こっていることが何を目ざしているを、見きわめることを要求する。そうでないと、人間は、野卑な享楽と心をむしばむ思いわずらいにおしつぶされて、神の御業に少しも気がつかず、鈍く無感覚になってしまう」(A.シュラッター、『講解』P.242)。

(2)目をさましている者としてのキリスト者・教会の生き方について、今朝教えられている箇所と同じメッセージを、ロ−マ13章11ー14節、Ⅰテサロニケ5章4節以下に見ます。目を通し、心に刻みたいものです。

[4]結び(1)「いつも油断せずに祈っていなさい」。この勧めを軽く聞き流し心に止めず、生活に根づかすことをしないと、教会は、はやかれおそかれ、ルカ19章45と46節に鋭く警告しているように、「強盗の巣」になってしまいます。

(2)祈りの生活・生涯のために
①ロ−マ8章26節、「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます」.8章33、34節、「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか.神が義と認めてくださるのです」。これら聖書の教えている恵みの事実をしっかり心と生活・生涯に受け止めたいのです。

②祈りの習慣の確立のために。心に定め、生活の中で繰り返し、生涯の終わりまで続ける必要があります。個人や家族としての祈りの時や場所について工夫が大切です。形式的になることを必要以上に恐れることが、祈りの良い習慣を止めてしまう落とし穴になることがあります。私たちの三度の食事は、ほとんど毎日何の感動もなく継続されているように見えますが、それが私たちになくてならない生命の糧です。毎度毎度御馳走を求めるあまり、平凡に見えても大切な土台である家庭料理を軽く見てはいけないのです・。静かな日々の祈りを続けることが恵みなのです。
また祈りについて時や場所を定めておくことにより、挫折してもそこに立ち返る道が開かれていることになります。

③個人としてまた家族としての祈りのときと共に、公の祈りの機会を大切に、恵みの機会を見逃さいないにしたいものです。