ルカの福音書身読の手引き・その41

☆沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告

「神のご威光に驚嘆」                  ルカの福音書9章37−44節
[1]序
 今朝の主日礼拝では、年輩の方々のため特別な時を持つことが許され感謝です。
また午後には、婚約式を予定しています。新しい家庭形成のため、下口兄とあいり姉のお二人が整えられ備えられて行くように。また家族、友人や知人など周囲の人々もそれぞれの分を果たしつつ備えをなすことが出来ますよう特別の導きと祝福を求めて行きます。
 こうした特別なことの重なる中で、いつものようにルカの福音書を読み進めます。

[2]弟子たちの現状(37−40節)
(1)「一行が山から降りて来ると」(37節)
 36節までに見る山の上の経験だけに、弟子たちはとどまることを許されないのです。特に33節でペテロが述べているような狭い意味での宗教的な世界に孤立してはならないのです。
 弟子たちは山の下の現実の世界・日常生活の中で、35節に見る命令に従うべきなのです。参照出エジプト記32章、シナイ山十戒を受けるモーセ。その時の山の下での民の実状。

(2)「ご覧ください」(39節)
 山の下での現実。それは一人の父親の叫びによって示されています。
①39節、ルカの医学的知識を示す描写。
②40節、「お弟子たちはできませんでした」、弟子の無能力。

[3]「神のご威光に驚嘆」(41−43節)
 弟子たちの無能力と対象的に主イエス・キリストの力ある御業。弟子たちの状態がすべてでなく、主イエスご自身の御業こそ望みなのです。
(1)41節、不信仰の指摘。参照民数記14章27節、申命記32章5、20節。

(2)「神のご威光に驚嘆」(43節)
 主イエスの御業を通して、ナインの母親の場合(7章16節)参照。
神の偉大さについては,Ⅱペテルロ1章16節「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです」。

(3)「このことばを、しっかり耳にいれておきなさい」(44節)
 驚嘆している人々に、22節以下で、引き続き第2回目の受難の予告。驚嘆すべき主イエスの御業も、十字架への道を不必要にするのではなく、よりはっきりとその必要を示すのです。

[4]結び
(1)祈りの必要
この出来事について、マルコが特に記していることに注意する必要があります。
マルコ9章28、29節。
「イエスが家に入られると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。『どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。』
すると、イエスは言われた。『この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。』」
弟子たち、キリスト者・教会に祈りの大切さを強く教えています。
Ⅰテモテ2章1節以下、感謝の祈りまた執り成しの祈りの実例として、
関谷綾子、『一本の樫の木』(日本基督教団出版局、1981年)に描かれている、
森 寛子(ひろこ)の場合。

(2)十字架の道の必然
「神のご威光に驚嘆」している人々に、主イエスご自身の受難の事実が再度語られている事実。弟子たちにとり、主イエスの十字架の意味を悟ることは、45節で指摘されているように、実に困難なことでした。
私たちは、今回ルカの福音書から使徒の働きと読み進めて行こうとしているのは、主イエスの直接の弟子たちがたどった道を私たちも経験したいからです。