ルカの福音書身読の手引き・その36

☆沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告


「娘二人

                  ルカの福音書8章40−56節
[1]序
 1992年8月の日々、父なる神の支えにより歩みを進めること許され感謝です。
同じ8月と言っても、1991年の8月でも93年の8月でもない。歴史の中でただ一度の1992年8月なのです。

 時とか年代、これはどれほど強調しても強調し過ぎることがない、私たちの歩みにとって大切なものです。
「それゆえ,私たちに
自分の日を正しく数えることを教えてください」(詩篇90篇12節)。この詩篇の記者の祈りは、私たちの祈りでもあります。
ですから聖書を読み進めて行くとき、時や年令さらに年代などの記述に注意せざるを得ません。

今朝の箇所にも、42節にヤイロの娘が「十二歳ぐらい」であったこと、
43節以下に登場する婦人について、「十二年の間長血をわずらった女がいた」と紹介、十二年の年月に私たちが目を注ぐことを求めています。
 同じ十二年の期間を対象的な生活を送ってきた、ともに「娘」と呼ばれる人物、そうです、「娘二人」についてルカが伝えるメッセージに聞き入りたいのです。

[2]ヤイロと娘
(1)群衆の背景(40節)の中でヤイロに焦点を絞り、彼の名前、職業や行為など明らかにし、彼の家庭の危機にルカは光りを当てて行きます。

(2)死の力
ヤイロの娘が死にかけている事実。十二年前ヤイロの家庭にひとり娘が誕生した喜び。それからの十二年間、彼女を中心としてヤイロの家庭がいかに幸いに満たされていたか十分想像できます。
しかし今やその娘が死に瀕しているのです。

(3)ヤイロの信仰
死の力が勝利をおさめたように見える中で(49節)、「恐れないで、ただ信じなさい」(50節)、主イエスのことばに堅くとどまる必要があります(25節を参照)。
ヤイロの信仰は主イエスのことばを第一に受け止め、すべてとすることに外なりません。このヤイロの信仰は娘に大きな祝福をもたらします。ヤイロの信仰を通して、ヤイロの娘は、主イエスの娘としても受け入れられている様を見るではありませんか。

[3]主イエスに「娘」と呼ばれる人
(1)「群衆がみもとに押し迫って来」(42節)る背景の中で、「十二年の間長血をわずらった女」に焦点を合わせます。

(2)十二年前、婦人が病にかかる前の状態。
その後十二年間の慢性的な病の影響を受け続ける生活。経済的な状態が次第に苦しくなり、さらに宗教的見地からさえ圧迫を受ける(44節,レビ15章25節以下参照)のです。

(3)婦人の信仰
主イエスにさわる。主イエスがご自身から力が出て行くのを感じる程に信頼と求めを込めて主イエスのもとに。
 また主イエスの前に、自分のありのままを伝えるのです(47節)。

[4]結び

(1)死の力とそれに打ち勝つ主イエスのことば
①死の力はあなどりがたい。ヤイロとその家庭を突然に襲い、すべてを根底から崩します。また十二年の間長血をわずらった婦人に対しては、じわじわと生活・生涯のすべての面を圧迫していきます。

②この死の力を打ち破る主イエスのことば
 「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい」(48節)。
 「子どもよ、起きない」(54節)。

(2)十二年から十二年へ.
①今日を十二年前(1980年)の時点から。
1980年どこで何をしていたのかを思い出し、その時点から今日見、今日まで導かれた歩みを全体と見通す。そこに確かな主なる神の御手の導きを認めないでしょうか。

②今日から十二年後を。
2004年、どこで何を主イエスの「安心して(平和のうちに)行きなさい」とのみことばに励まされて。
たとえその時までにすでに死を迎えているとしても、
「子どもよ.起きなさい」(54節)と、復活の主イエスの言葉に慰められて、復活の主イエスのみこころを十二年の歩みにおいて求め従う。

(3)日々の生活に対する主イエスのご配慮
①「安心して行きなさい」

②「娘に食事をさせるように言いつけられた」。
ここに見るのは、主のいのりの中の「日ごとの糧」についての祈りに通じるものです。マタイの福音書6章19−34節の箇所を味読。全体の流れの中で特に33、34節。