『沖縄から見た天皇制』再考

『沖縄から見た天皇制』再考

[1]序 
1989年の2・11中連合(現日本福音キリスト教会連合)の関東地区靖国集会で、『沖縄から見た天皇制』との題で、主の御名を賛美しつつ共に聖書のみことばを思い巡らす機会を持つことが出来ました。
そのとき以来沖縄で聖書を読み、聖書で天皇制を読む営みを続ける中で基本と確認して来た聖書箇所を関東に戻った今の時点で報告いたします。

[2]Ⅰペテロ1章24、25節をめぐって→国家の根本的限界
(1)1ペテロ1章24、25節は、イザヤ40章6から8節の引用 
 1ペテロ1章24,25節を思い巡らしたいのです。まず24節ですが、これは普通人間のはかなさを教える言葉として受け取られる場合が少なくありません。
「人はみな草のようで、
 その栄えは、みな草の花のようだ。
 草はしおれ、
 花は散る。」
 
しかし、この箇所は、本来イザヤ40章6節以下の引用である事実を注意すべきです。イザヤ書40章は、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放される預言です。
不滅と考えられていたエルサレムの都。その町の城壁も神殿すらもバビロンによって破壊され、民の指導者たちもバビロンに捕囚として連れ去られてしまう。こうしてイスラエルの人々にとってバビロンがどれほど巨大なものと映るかは十分予想されます。

しかしそのバビロンもやがて崩壊し、捕らわれの民は解き放たれる。これがイザヤを通してのメッセージの中心です。絶対的な権力を誇るバビロン。しかしバビロンは必ず滅びるのです。ですから「草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。」との預言は、本来単に人間個々人のはかなさではなく、巨大国家バビロンも草のように枯れ、花のようにしぼむ。巨大な国家も、神の御前には枯れしぼみ行く存在に過ぎないのです。 

(2)イザヤ書引用の意図とⅠペテロ1章24、25節の意味 
巨大なバビロンも草のように枯れ、花のようにしぼむ。預言者イザヤは、バビロン崩壊以前に、歴史の統治者であるお方からこの事実を示され、宣言しています。このイザヤの預言が指し示すと同じ宣言を、今、ペトロは旧約聖書を引用しながら行っているのです。確かに、現に今、新しいバビロン・ローマが巨大な権力をもって世界を支配しています(Ⅰペトロ5章13節「バビロンにいる、あなたがたとともに選ばれた婦人がよろしくと言っています。また私の子マルコもよろしくと言っています。」参照)。
しかし今どんなに絶対的な存在に思われ、そのように自らの権力を誇ろうとも、ローマもまた枯れしぼみ行く存在なのです。神のことばは永遠との確信に立つゆえに、ペトロは国家の絶対化、国家偶像化に対してきわめて覚めた目で見抜き、新しいバビロン・ローマの滅亡を静かに確信に満たされつつ宣言しているのです。
参照黙示録14章8節「また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。『大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。』」、参照黙示録16章19節、17章5節、18章10節。

「人はみな草のようで、
  その栄えは、みな草の花の  ようだ。
  草はしおれ、
  花は散る。」。
 これを単に人間個々人のむなしさを教えているとのみ理解しては全く不十分です。いや危険です。
個人のむなしさを見抜く人々が、国家の根本的限界を軽視さらに無視するため、むなしい個人の存在を偶像化した国家のため献げよと散華の叫びの中で、無残なささげものとされた掛け替えのない一人びとり。1945年までの歩みにおいて、この恐ろしい思想・擬似宗教の実態を私たちは見てきたのではずです。
それは聖書の宣言は似て非なるもの、いや全く違う。イザヤやペテロは、神のことばの不変不朽である事実に堅く立つ。それゆえ人間存在をむなしとし、滅ぶべき国家を絶対化し仮想する方法で、人間のむなしさを救おうとする恐ろしい罠から解き放たれるのです。

このⅠペテロ1章24,25節の基盤に堅く立ち、2章13,14節は相対的に理解されるべきなのです。
「人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、 また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。」

[3]ヨハネの黙示録20章11から15節を巡って→個人の尊厳  
 国家偶像化からの解き放ちについて、イザヤ、ペトロの宣言からはっきり教えられる必要があります。しかしさらにもう一つの点について思い巡らしたいのです。 
(1)ヨハネの黙示録20章11の決定的重要性
 ヨハネの黙示録の20章11節、「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」に注目したいのです。ここには、人間のはかなさから国家の絶対化へ追いやられ、その結果ひどく残酷な歴史に直面した中から、新たに別の落とし穴に陥る危険性の指摘とそこからの解放に対する指し示しを見ます。
1945年8月15日に経験したように、絶対化され偶像化された国家が敗れ去る現実に直面する時、私たちは、「国敗れて、山河あり」の道を選ぶ可能性があります。
その道に対して、20章11節は、最も基本的な事実を宣言しています。
この節の理解にとっても、聖書のすべての場合と同様、文脈に注意する必要があります。20章12節から15節の部分に見るように、人間は必ず死に直面し、しかも死によっても自らの存在を解消も、課題の解決を出来ないのです。こうした人間の限界・はかなさを実感しながら、しかも国家の絶対化が崩れ去る中で、自らのはかなさを自然の懐に解消しようとする誘惑に直面します。自然を永遠から永遠に変わることない不変なものと見、自然を神とする偶像礼拝の道です。

(2)ヨハネの黙示録20章12から15節
 非人間的な天と地を不変なものと見、自然を神格化し、その中に自らのはかなさを解消しようとする。そこでは、非人間的な自然の中に、人格的な存在である人間を合一しようとするのですから、人間の人格性を見失うことになります。
しかしヨハネの黙示録20章12節から15節では、生ける神の審判を受け、責任を問われるユニーク人間存在の在り方が明示しています。「皇位およびその統治の繁栄することは、まさしく天地とともに終わることがないのである。」の道ではないのです。
 そうです。死によってすべてが解消されるのではないのです。
使徒信条で「かしこより来りて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と告白している、
生ける神の審判の事実こそ、人間の人格的存在の重みを指し示すのです、参照ヤコブ4章1,12節、
「兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。
律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」

[4]結び
(1)創造者なる神を信ずる信仰の大切さ。
 使徒信条「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」。
 日本の公教育において進化論が絶対化されている。その根本的問題点を直視。

(2)主イエスの再臨の信仰。
 使徒信条「かしこより来りて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」、歴史的センスを大切にし、三位一体なる生けるお方により無比の人格(性)を与えられている人間存在の尊さに立ち、
小さな者・ことをあなどることなく、
大きなも者・ことにたじろがず思索を重ねる。