ルカの福音書身読の手引き・その28

☆沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告。

「主はその母親を見て」
ルカの福音書7章11〜17節

[1]序 
今朝,ルカ7章11〜17節の箇所を味わうにあたり,二つの点をはじめに注意したいのです.一つは,7章10節までとの前後関係です.この箇所では、「ことば」・主イエスのことばに焦点をあてている事実を見てきました.この箇所でも同じです.主イエスのことばです.主イエスのことばがどのようなことばであるかを通して,主イエスがどのようなお方であるか明らかにされるのです.マルコ4章35〜41節参照,特に41節,「風や湖までが言うことを聞くとは,いったいこの方はどういう方なのであろうか.」.「あなたに言う,起きなさい」(14節)と,死に打ち勝つことば.死も罪(Ⅰコリント15:56参照)も従うとは,いったいこの方はどういう方か.
 もう一つこの箇所で問題になっているのは,結局死と復活です.ヨハネ福音書11章1〜46節,特に24,25,26節,また35,36節を注意して読むことにより,今朝の記事の理解のため光を受けます.

[2]二つの行列,死といのちの行列 
ここに死といのちの二つの行列を見ます.
一方は,死んだひとり息子の死体と母親と町の大勢の人々,死と涙の行列.
 他方は,主イエスご自身と弟子たちと大勢の人々,いのちの行列.

[3]「主はその母親を見て,かわいそうに思い」
(1)二つの行列を描くばかりでなく,両者の出会いも浮き上がります.「主はその母親を見て」とあります.夫を失うことは大変ことです.しかしこの記事の婦人はそれだけでなく,息子,それもひとり息子の死に直面したのです.息子に死なれた母親.私たちも身近なところで,長男を沖縄戦で失った宮城ナベさんの姿に接してきました.この視点に立ち,ルツ記を読み直すと新しい光が与えられるのではないでしょうか.主イエスは母親一般を見たのでなく,「その母親」を見たのです.

(2)出会いは,一方的な恵みによります.母親,まして青年が求めたからでなく,主イエスご自身の方から恵みの先手をとっておられるのです.その恵みに母親も青年も,また町の人たち大ぜいも答えて行くのです.
 「(彼女を)かわいそうに思い」.このことばは,ルカの福音書であと二回それぞれ興味深く用いられています.
10章33節では,良きサマリヤ人について,
15章20節では,放蕩息子の父親について.それぞれの前後関係を注意して,誰が誰に対して,何故かわいそうに思ったのか思いめぐらして行くと,「主はその母親を見て(彼女を)かわいそうに思い」の意味が私たちなりに深く受け止め得るのです.
 さらに,このことばはマタイ(9:36,14:14,15:32,18:27,20:34)とマルコの福音書(1:41,6:34,9:22)以外には出てこないことばです.
それぞれの場合誰に誰に対して,何故かわいそうに思ったと記されているかを注意して味わうと実りがあります.

[4]結び
(1)死もいのちもひとり個人のこととしてはすみません.青年の死は,母親の涙また町の人たちおおぜいにもかかわります.
同様に,いのちの君の場合も弟子たちさらに大ぜいの人の群れへと広がります.死といのちを勢力を私たちはこの聖書の記事を通して見抜く必要があります.エペソ2章1節から3節を注意したいのです.パウロは,「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者」と見抜いています.私たちは死の行列に属するか,いのちの行列に属するかいずれか一方の道しか歩めないのです.このルカの福音書に見るできごとは,やがて主イエスが再び来り給うとき,現実となる復活の前味です.私たちの復活はいまだ現実になっていません。しかし主イエスにあってやがて必ず現実となるのです.
ですからやがてばかりでなく,今すでにこの希望に満たされて忍耐しながら戦い進むのです.これこそ,キリスト者・教会の葬儀を通して宣べ伝える復活のメッセージであり,今ここでの生き方なのです.

(2)沖縄での福音宣教は,死の理解と死に打ち勝つキリストの復活のメッセージを中心になされるべきと強く教えられます.これは沖縄だけのことでなく聖書に見る福音宣教のあり方です.
沖縄では実際的には,葬式のありかた,そこでのメッセージを通して最もよく現されるべきです.1986年4月に首里福音教会の牧師として導かれ沖縄の牧師となった者が,まず10年この一点に集中でき,年輩の方々の救いのため用いられるよう日々お祈りください.
また「やっぱり30年は」です.2016年の首里福音教会の牧師のためにお祈りください.そうです,次の牧師のためお祈りください.死に打ち勝つ復活のメッセージを次の牧師が今の牧師よりさらに深く沖縄の人々の心と生活と生涯に伝えることができますように.今の牧師のため祈らない人は,次の牧師に備えても祈らないでしょう.逆に今の牧師のため祈る人は,次の牧師のためにも必ず祈るでしょう.祈るべきです.死の行列の力をあなどってはならないのです.主イエスの復活のみが希望の源です.そして「まずは10年,やっぱり30年は」です.