ルカの福音書身読の手引き・その21

☆沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告。
安息日の主」
ルカの福音書6章1節〜11節

[1]序 
今朝はイースター礼拝、主イエスご自身の復活を特別に記念する礼拝です。午後には、洗礼式を予定しています。主イエスの十字架の死と復活にあずかる恵みに生かされる歩みへの出発です。
 今朝はルカの福音書6章1〜11節を味わいます。マルコ2章23〜28節、マタイ12章1〜8節を参照。

[2]安息日に麦の穂を摘んで(1〜5節)(1)パリサイ人たちの攻撃。麦畑の穂を摘んで一時的に空腹を満たすこと自体は律法で許されていたのです(申命記23章26節)。パリサイ人たちはそのことを安息日になした事実を問題にしています。穂を摘む行為を一種の刈り入れと見、安息日に刈り入れ・働きをしたと見なします。
聖書そのものの教えでなく、それに付随する言い伝えに縛られているのです。

(2)主イエスの答え。主イエスは聖書そのものを指し示しています。Ⅰサムエル21章2節以下の記事。ここに記されている出来事を安息日の出来事と当時の人々は理解していたと言われるます。
 様々な言い伝えではなく聖書そのものに聞く必要があります。律法の中心は何かを見失わないように注意する必要があります、
「わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。」(マタイ23章23節)。

主なる神の愛に答える義務は、どのように果たされるのでしょうか。言い伝えに基づく儀式を細かく守ろうとすることによってではなく。ローマ人への手紙12章1,2節に明示する基本線です。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

(3)中心は、5節。「人の子は、安息日の主」。主イエスの権威。

[3]安息日に右手のなえた人をいやす(6〜11節)
(1)パリサイ人たちの動機。「イエス安息日に人を直すかどうか、じっと見ていた。彼を訴える口実を見つけるためであった」(7節)。

(2)主イエスの行為と教え。
 安息日は、主なる神に仕えるために定められたもの。善を行ない、いのちを救うなど積極的に。隣人に対する愛を拒絶することの問題。

[4]結び
(1)主イエスこそ安息日の主。主イエスの復活により、週のはじめの日が主の日として、私たちの礼拝の生活・生涯の大切な基盤であり節目です。

(2)復活の主に従う歩み。律法に示された道、その中心を大切に。