ルカの福音書身読の手引き・その11

☆沖縄で聖書を、聖書で沖縄を読む。
首里福音教会、その主日礼拝を中心にした営みの報告。

「イエスもパプテスマをお受けになり」
ルカの福音書3章21節−38節

[1]序 
今朝の聖書箇所は、ルカの福音書3章21節以下です。はじめに主イエスバプテスマの場面、続いてルカが伝える系図の特徴に注意したいのです。

[2]主イエスバプテスマ(21、22節)(1)「イエスバプテスマをお受けになり」。
 「民衆がみなバプテスマを受けていた」(21節)と、洗礼者ヨハネの宣教活動が人々の間で大きな影響を与えていたとルカは伝えています。そして、「イエスバプテスマをお受けになり」(21節)と、主イエスがあたかも民衆の一人として全く同じ立場に立ち、バプテスマを受けられる事実を指摘しています。罪を犯すことのない神の独り子イエス(Ⅱコリント5:21、ヘブル4:15,7:26)。そのお方が悔い改めのバプテスマを受けようとなさる事実に洗礼者ヨハネが戸惑いを感じた点については、マタイの福音書が伝えています(3章14,15節)。主イエスは、「僕」(ピリピ2章7節参照)として、父なる神に全く服従し、民のためにバプテスマを受けられたのです。

(2)「聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった」(22節)。主イエスは、「聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生れ」(使徒信條、ルカ1章35節)、「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。神の恵みがその上にあった」(2章40節)と言われる12歳までの生活を送り、さらに「ますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された」(2章52節)と描かれている30歳ごろまでの生活を送られていました。今公生涯を始めるに当たり、その行動のすべてが聖霊ご自身の導きによる神の独子としてのものであることを21,22節の記述は明示しています。
 聖霊ご自身の導きに主イエスの行為・活動は、4章18節に見るイザヤ書の預言通りであり、罪人(マタイ9章13節)、疲れた者や重荷を負う者を招くものです(マタイ11章28節)。

(3)「あなたは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(22節)。
 イザヤ書42章1節参照。このことばには、父なる神に対する主イエスの特別な位置が明らかにされています。「父のみもとから来られたひとり子」(ヨハネ1章14節)、「父のふところにおられるひとり子」(ヨハネ1章18節)なるお方です。
 この特別な神の御子・主イエスを信じるキリスト者・教会は、主イエスに接ぎ木され一つにされ、神の子供(養子)たちとされるのです。子としての身分を一方的な恵みのゆえに与えられ、御子の御霊を心に遣わされて、神を「アバ、父。」と呼ぶことが許されているのです(ガラテヤ4章6節)。

(4)このバプテスマを、主イエスは祈りの中に受けられたことをルカは特に記しています。ルカは、主イエスの祈りの姿を繰り返し記しています(5章16節、6章12節、9章18節、28、29節など)。また主イエスが教えを始める公生涯をはじめたとき、「イエスはおよそ三十歳で」(23節)であったとルカは伝えています。


[3]「アダムの子、このアダムは神の子である」(23−38節)
(1)23節以下の系図を、マタイの福音書1章1節以下の系図と比較すると、ルカの系図の特徴を知り得ます。
たとえば、マタイの系図ではアブラハムから始まり主イエスにいたります。しかしルカの系図は主イエスからアダムへさかのぼるものです。またヨセフの父はルカではヘリとあるのに対してマタイではヤコブ、またダビデの子はルカではナタンであるのに対し、マタイではソロモンであることなど。

(2)ルカの系図の特徴として、38節の「アダム、このアダムは神の子である」に注意したいのです。マタイの系図は、アブラハムへの神の契約とダビデへの神の契約を中心に、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリスト系図」(マタイ1章1節)として与えられています。これに対し、ルカではアブラハムを越えてアダムにいたり、主イエスを本来のアダム、本来の人間の姿を現す方として示しています。主イエスを第二のアダム、終わりの時のアダム(Ⅰコリント15章4節)とパウロが指し示しているのと同じです。単にイスラエルの先祖アブラハムばかりでなく、人類の父祖アダムにいたることを通して、主イエスこそユダヤ人をはじめギリシャ人などすべての人々に約束されている救い主である事実を明らかにしています。

[4]結び
(1)12歳、30歳など年令の持つ意味。

(2)聖霊ご自身の導きと主なる神のことばが、主イエスの公生涯の出発にあたり共に記されている事実。

(3)主イエスにある系図、神の家族に迎えられた者としての歩み。ヨハネ1章12節、マルコ3章35節。